史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治天皇を語る」 ドナルド・キーン著 新潮新書

2021年03月27日 | 書評

一昨年(2019)、九十八歳にて世を去ったドナルド・キーン氏が平成十五年(2003)に出したものである。その二年前の平成十三年(2001)には大作「明治天皇」を上梓している。

何年か前に「明治天皇」に四苦八苦した記憶がある。「明治天皇」は上下巻(文庫本で四冊)に及ぶ長大な作品で、その長さもさることながら、結局明治天皇に興味が持てなかったということだったかもしれない。最後まで読み通すことができなかった。

新書の「明治天皇を語る」は、「明治天皇」の余滴というべき一冊であり、一貫して平易な口語体で書かれており、読みやすい。あっという間に読破することができた。

著者は、終始明治天皇は「偉かった」「当時の皇帝の中で世界一の存在」「明治大帝と言ったほうが良い」と手放しで絶賛する。その最大の根拠は、大元帥という絶大な権力を持っていながら、それを一度も行使しなかったことである。たとえば、戦争に際して連隊の配置だとか、人事に何かをいえば、誰も反論できず、そのとおり実行されたであろう。歴史を振り返れば、ロシアの皇帝ニコライ二世は、親戚に便宜を図ってくれたというだけで、軍事的な才能がない人物を重職に付けたなどということが行われている。明治天皇はそのような権力の乱用を一切しなかった。

明治天皇は、非常に自制的で贅沢を嫌い、民衆や兵士のことを思いやった。筆者が指摘するように、明治天皇の人格形成には元田永孚という儒教家の存在が大きかったと思う。

明治天皇は立場上、人の好き嫌いを軽々に口にすることはなかった。本書によれば、陸奥宗光のことは「本当に嫌いだった」というが、果たしてどうだろうか。陸奥のようにかつて国家に対して叛乱を企てたような人物を国家の重職に取り立ててはいけない、と信じていただけではないのか。少なくとも明治天皇自身に「嫌いだから」入閣を認めなかったという意識はなかったように思うのである。

また、「個人的な意見」という断りつきであるが、乃木希典も嫌いだったとしている。山県有朋陸軍参謀総長の退役が迫ったときに、後任に乃木を推したが明治天皇が断ったというのである。ここは意見が分かれるところかもしれない。司馬遼太郎先生の「殉死」は、明治天皇の乃木希典の心の交流を主題にした作品でもある。「殉死」では「明治帝は、希典がすきであった」と明確に記述している。乃木の学習院長就任は、帝の発案であり、「希典の剛直をもって貴族の子弟を感化させよう」という意図があったという。

人の好き嫌いのことは、遂には永遠の謎といわざるをえないが、どちらかというと司馬先生の見解の方がしっくりくるのである。

 

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「明治十四年の政変」 久保田哲著 インターナショナル新書

2021年03月27日 | 書評

明治十四年の政変というと、大隈重信が急進的な議会開設を建白し、それがために政権から追い落とされた…という極めて単純な理解をしていた。本書を読むと、この政変はそれほど単純なものではなく、北海道開拓使の廃止と官有物の払い下げ、西南戦争以降のインフレに対し薩摩グループの推進する積極的財政派と松方正義や井上馨らが主張する緊縮財政派の対立、民間では自由民権派が早期の議会開設を強硬に主張し、元田永孚や佐々木高行ら宮中グループも天皇親政を企図して密かに機会を伺っていた。

こうした複雑な情勢を本書ではまるで絡まった糸を解くようにして目の前に提示する。その中で、伊藤博文が主導権を握っていく様子を分かり易く描いた。この政変の一つの帰結は、大久保利通亡きあと伊藤博文が実権を手にすることである。その内幕は ――― 伊藤が思い描いたシナリオのとおり進んだのかは分からないながら ――― 一遍の政治ドラマを見るが如くである。

伊藤博文は、藩閥政府を強固なものにするため、薩摩グループへ近づいた。現実的政治家である伊藤にとって、多少譲歩をしてでもこの時点では藩閥を基礎とした政権を維持することが必須であった。

明治十四年(1881)の時点で四十三歳であった大隈重信は、薩長出身者が参議を独占する藩閥政府にあって藩の背景を持たない稀有な存在であった。つまり実績と実力でこの座をつかみ取ったのである。積極財政を推し進める薩摩グループにとっても積極財政主義の大隈との連携は肝要であったし、保守的な宮中グループに対抗するためにも伊藤、井上馨ら長州閥にとっても開明的な大隈の存在は重要であった。

本書によれば、明治十三年(1880)は、「国会年」とされている。在野では同年三月、国会期成同盟第一回大会が開催され、これを危険視した明治政府は集会条例を公布、即日施行して取り締まりを強化した。明治政府の参議では、明治十二年(1879)十二月に山県有朋が意見書を提出したのが先駆けとなった。翌年二月には黒田清隆が立憲政体に関する意見書を提出したが、議会開設は時期尚早とするものであった。議会開設に消極的な黒田であっても、議会開設を否定しているわけではない。

続いて山田顕義、井上馨が意見書を提出。負けじと宮中グループの佐々木高行、元田永孚も建白書を提出した。宮中グループは元老院の憲法草案を採用するよう求めた。元老院の提案は、薩長藩閥に抵抗し、自由民権グループにも与さない独自のものであった。

明治十三年(1880)十二月には、伊藤博文が意見書を出している。元老院を強化し、「王室の輔翼」とし、将来の下院(民選議員)に備えようという主張であった。

こうした中で大隈は明治十四年(1881)三月、立憲政体に関する意見書を提出した。大隈の意見書はイギリス流の議員内閣制を主張するもので、執筆者は大隈のブレーンと呼ばれた矢野文雄である。

大隈は意見書を密奏という形で提出した。つまり左大臣有栖川宮限りとし、三条実美や岩倉にも見せないで欲しいと願い出たのである。これが伊藤博文らの不信感を買い、後の政変の遠因となった。大隈の真意はともかく、薩長出身の参議の間に「大隈が薩長藩閥政府を打倒しようという陰謀を秘めているのではないか」と邪推を生むことになったのである。しかも大隈の意見書は福沢諭吉の門下の手になる私擬憲法案と酷似したものであった。大隈の背後に福沢がいるのではないか、との政府内の不信感につながるものであった。

伊藤博文が、大隈が意見書を提出したことを知ったのは、三か月後の同年六月頃のことと言われている。筆者によれば、右大臣岩倉具視にしても、大隈の意見書の内容を知ったのは、同年五月のことという。岩倉は伊藤との議会に対する構想の違いに懸念をもった。その背後には、井上毅の存在があった。

筆者は井上毅を明治十四年の政変のフィクサーと評している。井上毅は肥後藩の出身でありながら、終始薩長藩閥政府を支持する立場をとった。大隈や福沢が主張するイギリス流の議員内閣制度は、議会政治の歴史もなく、政党の存在しない日本には時期尚早であり、在野には参議や省卿を担える人材もいない実情に合わないというのである。井上毅はドイツ流の立憲君主制の採用を訴えた。

その立場から井上毅は強烈に大隈を批判し、それを岩倉に説いた。岩倉が大隈の意見書に危機感を抱くようになった背後には井上毅の暗躍があったのである。

伊藤は大隈の意見書に「驚愕」し、出し抜けに上奏したことは「不都合千万」と怒りを露わにし、三条実美には「辞任」までほのめかした。伊藤の憤怒を知った大隈は直ちに伊藤を訪ねひたすら謝罪した。伊藤の怒りもひとまず収まり、このまま推移すれば「政変」は起きなかったかもしれない。

そこで表面化したのが開拓使官有物の払い下げ事件であった。新聞メディアは挙って薩長藩閥を批判し、大隈を英雄視した。筆者によれば「西南戦争の際の西郷隆盛のようだった」という。

この事態を収束させるには、払い下げを中止せざるを得ない。これを黒田清隆に納得させるためには、陰謀を企てた(とされる)大隈重信を政府から追放させるしかない。明治十四年(1881)十月十二日の未明、伊藤博文らが御前会議の内容を大隈に伝え、大隈は素直にこれを受け入れ辞表を提出した。

不可解なのは、本当に大隈に陰謀があったのか。大隈が官有物払い下げをリークしたのかという点である。筆者によれば、大隈が情報をリークした痕跡はないというし、大隈や福沢が薩長藩閥の打倒を企てていたということはないとしている。とすると、無抵抗のまま辞表を出したのも不可思議である。

この政変による勝者は、議会開設・憲法制定の主導権を握った伊藤博文であることは論をまたない。フィクサーとして動いた井上毅も勝者に列しても良いだろう。あるいは政変後、大蔵卿としてデフレ政策を推し進め日本銀行を設立して近代的通貨制度を確立した松方正義も勝者としてよいかもしれない。

一方、政権を追われた大隈、政治的影響力を削がれた福沢諭吉は敗者に分類される。さらに払い下げを中止せざるを得なくなり事実上失脚した黒田も政変の敗者だったとする筆者の見解に納得である。

 

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「明治史研究の最前線」 小林和幸編著 筑摩選書

2021年03月27日 | 書評

タイトルのとおり、明治史研究の最前線をさまざまな角度から解説した書籍である。政治史はもちろん、思想史、外交史、経済史、交通史、宗教史など、切り口は多様である。

馴染みの薄い時代や分野になるとチンプンカンプンなので、多少でも興味を引いた論説のみ、感想を書き残しておく。

冒頭は久住真也先生(大東文化大准教授)の「維新史研究の中の幕末史」である。「幕末史研究は、一般の人々がいだく幕末のイメージとは相当に異なる部分もある」という指摘が本論の核心をついているといえよう。本論によれば、「混沌とした幕末史に国家的枠組みを設定し、一見、私的利害に基づいて対立しているかに見える諸勢力が、外圧のなかで国家的独立を維持するために有した、共通の目標を見出そうとするもの」「対外的方針と国内方針の組み合わせのあり方を軸に、中央政局の動向をダイナミックに描き出して」いくのが研究の潮流なのだそうだ。

1989年の昭和天皇崩御を契機に天皇制への関心が高まり、そのなかで前近代の天皇研究が本格的に展開された。かつて私も読んだ藤田覚著「幕末の天皇」(1994年)などで「武家に操られる天皇という古いイメージ」が一新されることになった。

天皇・朝廷に関する研究とともに注目されることになったのが、家近良樹先生が主唱した「一会桑」と呼ばれる政治勢力である。こうした研究の進展により「今まで戊辰戦争の「敗者」として悲劇的に捉えられがちな会津藩の評価を大きく変えた」「かつては「歴史フアン」や「マニア」の研究対象と見られていた新選組が、一会桑勢力との関わりから学問的な検討が加えられるにいたった」という。

一方で幕府本体の研究も進んでいる。近年では「「天皇制絶対主義」に連動して「徳川絶対主義」という考え方が消滅し、一会桑研究にも影響されつつ、幕府内部の様々な政治的潮流とその政局上での役割が分析され、小栗ら「親仏派」の幕政上の位置づけも見直しが求められるにいたった」とする。

薩摩藩に関する研究は長州藩研究と比べると立ち遅れていたという。近年ではその薩摩藩に関する研究が進んでいる。特に島津久光や小松帯刀という、どちらかというと脇役として扱われていた人物に注目が集まっている。「藩内は必ずしも討幕一色ではなく、実力者である久光や小松の動き、藩内の倒幕反対派も含め、その動向が再考されるようになった」という流れは必然的なものかもしれない。

「倒幕派」中心史観の呪縛から脱却し、薩摩・長州のほか、越前・尾張・加賀・鳥取・岡山・仙台・米沢などの研究も著しく進んでいる。

王政復古のクーデターは「徳川慶喜=幕府の打倒を目指したものではないこと」「王政復古で成立した政府は、鳥羽伏見戦争以降の政府と異なり、天皇よりも公議原理が優位に立つ政府であること(つまり、この時点では天皇親政は成立していないこと)」などがほぼ認知されるに至っている。

「公武合体運動」と「尊王攘夷運動」は、一般的には対立するものとイメージされているが、最近の研究では「攘夷のための公武合体」であり、天皇が攘夷を固守する限り、「公武合体」のためにも「攘夷」が必要とされると認識されるようになっており、両者が対立するという考え方は否定的となっている。それでも私のように頭の固い人間にしてみれば、幕末史は公武合体派と尊王攘夷派の対立の歴史であり、それがために様々な軋轢が生じ、多くの血が流されたと信じ込んでいる。結局、攘夷という言葉にも幅があるのと同様に、公武合体の意味するところも多様であり、一つの単語で定義するのは無理があるということであろう。

もう一つ付け加えておくと、昨今では「尊王攘夷」や「公武合体」という使い古された用語よりも「公議輿論」という概念の方が重視されているのである。

また、「慶喜を朝廷や諸藩を圧倒する「徳川絶対主義」を目指したとする理解は、学会レベルでは低調」とされている。慶喜は大政奉還後も政権への参加意欲は高く、政権へ参加すれば、その得意の弁舌と経験・能力からすれば、枢要な地位に就くことは可能だろう。慶喜が何を目指していたのか、今後の研究成果を待ちたい。

本論最後に課題が総括されている。アカデミックの世界と一般(ジャーナリズムや政治の世界も含む)との認識のずれに言及している。その分かり易い例が坂本龍馬である。薩長盟約を例にとれば、小説とは異なり龍馬は主役ではない。幕末史研究における龍馬の存在はさほど重視されていない。久住先生は「研究の成果を社会に還元することは研究者の使命」と書かれているが、このギャップをどうやって埋めていくのか、これも研究者に課された重い課題であろう。最近でいえば町田明広先生による「新説 坂本龍馬」(インターナショナル新書)などが出ているが、民衆の脳裏にこびりついた「龍馬像」はちょっとやそっとでは覆りそうもない。

本書では「コラム」として個別の諸問題のテーマについて、専門家が筆を執っている。いずれも興味深いものばかりであるが、友田昌弘先生(大東文化大学文学部非常勤講師)による「戊辰戦争研究の論点 奥羽越列藩同盟をめぐって」が最も考えるところがあった。そもそもこれまで奥羽越列藩同盟が何を目指していたのか、深く考えたことがなかった。

原口清は、「まず地域的な諸藩連合政権として誕生したもの」と評価。石孝は「将来の政体構想を持たない遅れた封建領主(大名)のルースな連合体」と定義した。佐々木克は「まず会津藩の謝罪を新政府にかけあう「防御的嘆願同盟」として成立し」その後、会津庄内と与し、北越諸藩をも巻き込みながら新政府に抗する「積極的軍事同盟」へと変化した。時期により質的に変化していったことを解明した。非常に説得力のあるものである。

最近では海外史料の発掘によりプロイセンやイタリアといった諸外国と列藩同盟の関係からも分析が進んでいるという。新潟港を舞台に外国人が暗躍し、同盟との折衝を試みた。これに関して本論でもいくつか書籍が紹介されている。いずれ何か入手して読んでみたい。

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