(県立上田高等学校)
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上田藩主屋敷門と堀跡
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長野縣上田高等学校
現在の上田高校の敷地は、かつての藩主屋敷の跡に当たる。同校東側の表門と、その両脇につづく土塀・堀・土塁は、昔の面影をよくとどめている。関ヶ原の合戦の後、真田信之が上田に入ったが、城郭は取り壊されたため、上田城から少し離れたこの場所に藩主居館を構えた。その後、上田城は再興され、藩主も仙石氏、松平氏と受け継がれたが、藩主居館はそのまま使われた。なお、表門は寛政元年(1789)に焼失したあと、その翌年に再建されたものである。
(上田商工会議所)
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明治天皇行在所趾
大手町の上田商工会議所の前に明治天皇行在所跡碑が建てられている。元帥公爵山縣有朋の書。
(願行寺)
願行寺(がんぎょうじ)は、天正十四年(1586)に真田昌幸が上田城下町を造る際に海野郷から城近くの厩裏町に移転され、その後、元和七年(1621)に信之によって現在地に移転された。
もともと門前の前に道は通じておらず、大正十四年(1925)に東電鉄丸子線上田東町が開設された際に、その取り付け道路が寺の境内を通るため、本堂を取り壊し門の位置も移転された。この四脚門は昭和二十九年(1954)にも再度移転され、さらに平成十三年(2001)の本堂、庫裡再建の際に現在地に移転したという経緯がある。
この四脚門は唐破風を備えた桃山風建築であるが、平成十三年(2001)の修理の際に享保三年(1718)に再建されたものであることが判明した。
願行寺墓地は、門前を走る道路を挟んで向かい側にある。正面扉は鍵がかけられているが、その脇の小さな戸から進入することができる。入って右手に上田藩主藤井松平家の墓所がある。
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願行寺
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願行寺四脚門
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故従四位下行侍従兼伊賀守上田源公髪歯之塚
(松平忠固の墓)
松平忠固は、文化八年(1811)、姫路藩主酒井忠実の二男に生まれた。天保元年(1830)、家督を相続し伊賀守を称した。天保五年(1834)奏者番、同九年、寺社奉行加役、弘化二年(1845)には大阪城代となり、従四位下に叙された。嘉永元年(1848)、老中に抜擢された(この時は忠優と名乗っていた)。安政元年(1854)、ペリーの再来航に際して、それまで阿部正弘と牧野忠雅の二人だった海防掛に、松平乗全とともに加えられた。当時多くは攘夷論に傾いていたが、開国論を主持したのは阿部正弘と忠固のみであった。徳川斉昭の容喙を斥け、幕府の意見を貫いたのは、忠固の尽力によるといわれる。安政二年(1855)八月、職を免じられたが、安政四年(1857)九月、再び老中次席に列せられた(この時より忠固を名乗った)。忠固は、外交のことは家康以来、一にみな幕府の専断に出ており、朝裁を仰いだことはなかったと主張した。井伊直弼が大老に就任し、ハリスからの調印要請に対する会議の席上、忠固は即時調印を主張し、閣老はみなこれに賛成した。幕議は一決し、神川にて修好通商の仮条約締結に至った。その四日後、忠固は老中職を免じられた。安政六年(1859)九月、年四十九にて没。
忠固は安政年間に亡くなってしまったため、あまり注目されることはないが、開国・通商に関して極めて重要な役割を果たした。少なくとも条約締結に積極的とは言い難い井伊直弼よりは「横浜開港の恩人」と呼ぶに相応しい人物だろう。
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大彰公髪歯塚(松平忠済の墓)
松平忠済(ただまさ)は、寛延四年(1751)、上田藩主松平忠順の長男に生まれた。天明三年(1783)、家督を継いだ。長男忠英(ただつね)が早世したため、分家から忠学(たださと)を迎えて文化九年(1812)に隠居。文政十一年(1828)に七十八歳で死去した。
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賢明院殿従五位下前左金吾徳誉懿山道醇大居士(松平忠英の墓)
松平忠英は、忠済の長男。家督を継ぐことなく、文化七年(1810)、二十歳の若さで世を去った。
(岩下)
明治十一年(1878)八月三十日、明治天皇は北陸東海両道巡幸に発輦。同年九月七日、小諸行在所より牧家、田中を経て、午後三時二十分に岩下に至り、尾崎惣作邸にて小休をとった。この日のため尾崎邸では、御座所を新築して天皇を迎えた。岩倉具視、大隈重信、井上馨等太政官内務、大蔵、陸軍省、警視局から総勢数百余名が供奉したと伝わる。
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明治天皇 岩下御小休所跡
仁和寺宮嘉彰親王は、伏見宮邦家親王の第八子。安政五年(1858)、京都仁和寺に入って純仁法親王と称したが、慶応三年(1867)、勅命により二十二歳のとき還俗し、東伏見宮嘉彰親王と改称した。慶應四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いでは、征東大将軍として参戦し、続いて同年六月の会津征討越後口総督となって転戦した。会津降伏後、高田を経て東京に向かう途中、岩下村尾崎儀兵衛宅を御小休所とした。
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仁和寺宮嘉彰親王御遺跡