史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浅草 Ⅸ

2022年03月12日 | 東京都

(稱福寺つづき)

 稱福寺墓地を入ったところに亀田鵬斎や柴田是真の墓がある。

 

鵬斎龜田先生之墓

 

 亀田鵬斎は宝暦二年(1752)、江戸神田の生まれ。名は翼(よく)といい、のち長興と改めた。字は稺龍(ちりゅう)、通称は文左衛門、鵬斎あるいは善身堂と号した。折衷学者井上金峨に学び、山本北山とともに荻生徂徠の古文辞学を排撃し、朱子学を批判したため、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書もよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」「善身堂詩鈔」などがある。文政九年(1826)、七十五歳で没。

 亀田綾瀬(りょうらい)は安永七年(1778)、鵬斎の子に生まれた。蔵前さらに日本橋本材木町に塾を開き、子弟を教えた。関宿藩主久世氏に招かれ、藩校教倫館の儒官となった。嘉永六年(1853)、年七十六にて没。

 

綾瀬龜田先生之墓

 

 綾瀬の墓の背後に鶯谷の墓がある。

 亀田鶯谷(おうこく)は、亀田綾瀬の養子。文化四年(1807)、下総八千代村に生まれた。十九歳の時、江戸に出て、亀田綾瀬に師事したが、見込まれて嗣となった。のちに関宿藩の儒官となり、藩校教倫館の学範に任じられた。維新に際し、藩内二党に分かれて紛糾し、鶯谷も連累して藩獄にあること一年に及んだ。のち東京深川に住し、その後本所横川に移って明治二十三年(1890)、年七十五で没した。

 

弘道院釋是真居士(柴田是真の墓)

 

 柴田是真は文化四年(1807)の生まれ。文化十四年(1817)、十一歳のとき古満寛哉に入門。蒔絵を学び、文政五年(1822)、鈴木南嶺に円山派の画法を学んだ。天保元年(1830)、京都に出て岡本豊彦に入門二年に及び、その間に頼山陽に経史を、香川景樹に国学、和歌を学んだ。長崎行きを企てたが果たせず、江戸に戻った。天保十二年(1841)、東北各地を巡遊。明治期に入って漆芸界の第一人者となり、明治七年(1874)、外務省御用をうけ、明治十年(1877)以降は各博覧会に出品、審査員も務め、明治十九年(1886)、皇居造営御用杉戸絵を描き、明治二十三年(1890)、帝室技芸員となった。明治二十四年(1891)、年八十五で没。

 

(長敬寺)

 

長敬寺

 

 長敬寺に遠藤胤緒(もしくは胤統)の墓がある。残念なことに墓地は工事中で遠藤家の墓石に近づくことができなかった(台東区西浅草1‐2‐7)。

 

舊遠藤 東子爵家累代之墓(遠藤胤緒の墓)

 

 遠藤胤緒は寛政五年(1793)の生まれ。父は大垣藩主戸田氏教。享和元年(1801)、遠藤胤冨の養子となり、文化八年(1811)、家督を継ぎ、同年十二月、従五位下但馬守に叙任された。天保四年(1833)、大阪城玉造口定番となり、天保八年(1837)二月、大塩平八郎の乱鎮定に活躍し、三老中連署の感状を賜った。天保十二年(1841)、出府し若年寄に任じられ、嘉永五年(1852)、勝手掛および西丸造営ならびに海岸防御筋用掛を命じられ、同年十二月には二千石を加増された。安政元年(1854)十一月、江戸湾台場築造の用掛、安政三年(1856)、蝦夷地開拓の用掛、安政五年(1858)には将軍家茂将軍職宣下の用掛を務めた。安政六年(1859)には外国事務掛を命じられ、露国使節ムラヴィヨフに面謁のため酒井忠眦とともに品川沖停泊の露艦に至り、芝愛宕下天徳寺で露使に応接した。万延元年(1860)閏三月、神奈川開港に尽力した労を賞賜され、城主格を命じられ、本丸造営用掛、国益主法掛、外国貿易筋用掛、和宮婚姻大礼用掛。文久元年(1861)には陸海軍備向ならびに軍制の用掛を命じられた。のち若年寄を免じられ、従四位下民部大輔に叙任され、雁之間参席を命じられた。文久三年(1863)、願いにより隠退し、嫡孫胤城(第三男)へ家督を命じられた。元治元年(1864)十二月、中務大輔と改称した。明治三年(1870)、七十八歳で没。

 

 

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三ノ輪

2022年03月12日 | 東京都

(梅林寺)

 

梅林寺

 

 三ノ輪の梅林寺(台東区三ノ輪1‐27‐3)を入ると、台東区教育委員会の建てた「阿部友之進照任墓」の説明板があるので、当寺に阿部照任の孫、阿部檪斎の墓もあるのだろうが、いくら墓地を歩いてもそれらしい墓石は発見できなかった。比較的新しい墓石だが、「本草家阿部代々之標」があったので、ここに集約されているのだろう。

 

本草家阿部代々之標

 

 阿部檪斎は文化二年(1805)の生まれ。曾祖父は江戸中期の本草学者阿部照任友之進。曾占春と岩崎灌園の教えを受けて、本草に詳しく、諸国を遊歴して「巴豆考」を著わした。医療の余暇著述に親しみ、本草に関する数部の著作を遺し、また英語にも通じた。文久元年(1861)、幕府が派遣した咸臨丸に乗船し、小笠原の実地調査にも参加した。明治三年(1870)、年六十六で没。

 

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野田 Ⅱ

2022年03月05日 | 千葉県

(海福寺)

 海福寺の最寄駅は東武野田線の梅郷駅である。駅の近くを日光東往還道(流山街道)が走っている。徒歩十数分で海福寺に行き着く。

 

海福寺

 

 野田市山崎964の海福寺は、岸田城主岡部長盛の開基と伝えられる。その縁で、墓地の奥に岡部長寛の墓がある。長寛の墓の前には石の鳥居が建っているので、直ぐにそれと分かる。

 

正五位岡部長寛墓

 

 岡部長寛は、文化六年(1809)の生まれ。父は岸和田藩主岡部長慎。天保二年(1831)、一族である岡部外記長貞の家を継いだ。しかし、安政二年(1855)、弟の十三代藩主長発が死去し、世子幼少のため同年二月、宗家を襲封した。以後、動揺する幕末の政局の中にあって藩務を統括し、慶応三年(1867)十二月、諸侯が京都に召されると、家老岡部結城を上京させて藩を勤王方に列せしめ、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いでは、倒幕側について藩の保全に努めた。同年九月の改元の大赦令により、先に家政紊乱により処された差控を許され、ついで十二月二十八日、在任十三年にして致仕し、長発の遺子長職に代を譲った。明治二十年(1887)、年七十九で没。

 

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佐原 Ⅲ

2022年03月05日 | 千葉県

(観福寺つづき)

 

故 香取少宮司兼權少教正伊能頴則之墓

 

 伊能頴則(ひでのり)の墓を訪ねるため、観福寺を再訪した。観福寺には、伊能姓の墓所がいくつか見られるが、頴則の墓は伊能忠敬の墓所からほんの十メートルほど進んだ場所にある。

 伊能頴則は、文化二年(1805)の生まれ。下総国埴生郡飯田村の神山魚貫ほかに学び、嘉永元年(1848)、家業の呉服商をすてて、江戸本所亀沢町に居住、皇学を教授した。嘉永六年(1853)、佐原に帰住し、元治元年(1864)、香取尚古館学師となり、同年八月には香取神宮神官となった。明治元年(1868)、東京に出て、神祇官に勤めた。明治二年(1869)八月、大学大助教となり、令義解を御前にて講じた。明治五年(1872)、大講義、明治八年(1875)、香取神宮少宮司となり、ついで権少教正となった。下総地方の国学指導に神山魚貫とともに努め、また国書蒐集にも努めた。歌風は古今風であり、画は大雅堂風を好む文人でもあった。明治十年(1877)、年七十三で没。

 

(浄国寺)

 

浄国寺

 

清宮家墓地

 

常隂清宮秀堅墓

 

 清宮家の墓所は生垣で囲まれており、その前には大きな鳥居が建てられているので、遠くからでも直ぐに分かる。(香取市佐原イ1973)

 清宮秀堅は文化六年(1809)、佐原の生まれ。父は武彦といい、詩画をよくした文化人であった。秀堅は若くして父母と別れ、祖母に育てられた。幼名は秀太郎、のちに総三郎と改め、通称は利右衛門、号は常隂。幼時から学問を好み、津宮の久保木竹窓、潮来の宮本茶村に学んだ。二十七歳で名主となり、天保十三年(1842)、三十四歳のとき領主の津田氏に仕えた。以来、二十年余り、津田氏の財産を管理し、苗字帯刀を許された。明治五年(1872)、印旛県に出仕し、歴史、地理の講義、調査を行った。明治六年(1873)、新治県の地誌編集に従事し、香取、海上、匝瑳の三郡を探訪して「三郡小誌」を著わした。私費を投じて佐原村や付近十七村の道路の改修を行い、新田開拓にも貢献した。明治十二年(1879)、年七十一で没。

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多古 Ⅱ

2022年03月05日 | 千葉県

(東禅寺)

 平安時代末、多古は桓武平氏の流れをくむ千葉氏の荘園「千田荘」の中心地であった。千葉氏の中興の祖千葉常胤は、源頼朝を援け、鎌倉幕府の成立に貢献し、千葉氏が下総最大の武士団となる礎を築いた。以来、勢力は全国におよんだが、千葉氏一族の内乱がたびたび起き、千田荘もその舞台となった。

 享徳四年(1455)には、千葉宗家の千葉胤直は千葉城を追われ、子供や弟を引き連れて千田荘まで逃れた。胤直と側近は多古城に拠って応戦したが、敢え無く陥落し、胤直らは東禅寺で自害した。この地は千葉宗家終焉の地となったのである。東禅寺墓地に並ぶ七基の五輪塔は、千葉胤直らの墓と伝わる。(多古町寺作117)

 

東禅寺

 

 千葉胤直らの墓は、本堂から少し離れた丘の上にあり、その周りに狭い墓地がある。ほとんどが並木姓の墓石であるが、その中に並木栗水(りっすい)の墓がある。

 

配中村氏 並木栗水翁 墓

 

 並木栗水は、文政十二年(1829)の生まれ。幼名は左門。のちに栗水と号した。二十一歳で大橋訥庵の門に入って勉励し、思誠塾の塾長となった。在塾七年で佐原に帰り、螟蛉塾を開き、慶応二年(1866)、郷里久賀村に移った。志士的な動きはせず、郷党の子弟の教育に専念し、御所台先生と称された。大橋陶庵、楠本碩水らと交遊があり、経学・詩文に優れ、書も巧みであった。時流の外にあって学者、教育者としての生涯を貫いた。北総地区の名士で、その門から出た者も多い。大正三年(1914)、年八十六で没。

 

(螟蛉塾跡)

 東禅寺から県道120号に戻り北上して、最初の交差点(台作バス停がある)を左折して六十メートル行ったところに並木栗水の顕彰碑が建てられている。ここが螟蛉塾跡である。螟蛉(めいれい)とは青虫のことであるが、「詩経」にあるジガバチが螟蛉の子を背負い、七日間で化して自分の子とした故事に因んで「養子」の意味もある。弟子は師の後ろ姿を見て育つという教育指針のもと、師と弟子が日々生活をともにした。希望者は、何年でも学ぶことができたという。(多古町御所台171)

 

栗水並木先生之碑

 

 石碑の題字は徳富蘇峰。

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八街

2022年03月05日 | 千葉県

 コロナ感染拡大を受けて、ずっと野球の練習ができなかったが、このところ急速に感染者数が減少したため、二年振りに市川のグラウンドで練習を行うことになった。

 当方も半年前に還暦を迎えたが、この二年の間にチームメイトの中には、十キロ以上のダイエットに成功した者、大型バイクを乗り始めた者、外車を手放して軽自動車に乗り換えた者など、それぞれそれなりに変化があったらしい。

 久しぶりにバットを握ったが、若者の速球にも振り負けずに打ち返すことができて「まだ行けるんじゃないか」という自信を得ることができた。

 せっかくなので、この機会に午前中の練習の後、千葉県下の八街、多古、佐原(香取市)の史跡を回ることにした。天候にも恵まれ、充実した史跡の旅を楽しむことができた。

 

(新勝寺八街分院)

 

新勝寺八街分院

 

 八街市の新勝寺八街分院の駐車場に西村郡司の顕彰碑が建てられている(八街市ほ1046)。渋沢栄一の篆額。小牧昌業撰文、齋藤利恆(芳洲)の書。大正七年(1918)九月の建碑。

 

贈従五位西村郡司翁碑

 

 西村郡司は文化十一年(1814)の生まれ。生地は北足立郡門前村(現埼玉県さいたま市見沼区)。初め江戸深川で商業を営んだ。安政六年(1859)、神奈川開港の直後、同地に赴き貿易に従事した。この頃、渋沢栄一と交友があった。奥羽征討の師起こると、軍資として一万両を献じ、五口俸を給され、称氏帯刀を許された。維新後明治政府は東京府の流民救済のため、下総の旧幕府の牧野(佐倉七牧)を開放し、開墾会社をつくり、明治二年(1869)四月、窮民を募って帰農させた。この時、郡司は三井八郎右衛門らとともに会社の頭取にあげられた。郡司は翌明治三年(1870)、現・八街市の北半を占める旧柳沢牧の開墾に当たった。明治五年(1872)五月、会社は解散したが、郡司はその後も現地に住み、地主として開墾を続けた。無住の原野が今日の八街市となるに至った町づくりの功労者である。明治二十八年(1895)、年八十二で没。

 

(けやきの森公園)

 

けやきの森公園

 

 けやきの森公園の用地は、明治二年(1869)、西村郡司が開墾会社事務所を開設した際に確保された場所である。その後、昭和二十六年(1951)から平成二年(1990)まで、八街農林保育園として使用された。(八街市ほ239‐6)

 

けやきの森公園

 

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