(稱福寺つづき)
稱福寺墓地を入ったところに亀田鵬斎や柴田是真の墓がある。
鵬斎龜田先生之墓
亀田鵬斎は宝暦二年(1752)、江戸神田の生まれ。名は翼(よく)といい、のち長興と改めた。字は稺龍(ちりゅう)、通称は文左衛門、鵬斎あるいは善身堂と号した。折衷学者井上金峨に学び、山本北山とともに荻生徂徠の古文辞学を排撃し、朱子学を批判したため、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書もよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」「善身堂詩鈔」などがある。文政九年(1826)、七十五歳で没。
亀田綾瀬(りょうらい)は安永七年(1778)、鵬斎の子に生まれた。蔵前さらに日本橋本材木町に塾を開き、子弟を教えた。関宿藩主久世氏に招かれ、藩校教倫館の儒官となった。嘉永六年(1853)、年七十六にて没。
綾瀬龜田先生之墓
綾瀬の墓の背後に鶯谷の墓がある。
亀田鶯谷(おうこく)は、亀田綾瀬の養子。文化四年(1807)、下総八千代村に生まれた。十九歳の時、江戸に出て、亀田綾瀬に師事したが、見込まれて嗣となった。のちに関宿藩の儒官となり、藩校教倫館の学範に任じられた。維新に際し、藩内二党に分かれて紛糾し、鶯谷も連累して藩獄にあること一年に及んだ。のち東京深川に住し、その後本所横川に移って明治二十三年(1890)、年七十五で没した。
弘道院釋是真居士(柴田是真の墓)
柴田是真は文化四年(1807)の生まれ。文化十四年(1817)、十一歳のとき古満寛哉に入門。蒔絵を学び、文政五年(1822)、鈴木南嶺に円山派の画法を学んだ。天保元年(1830)、京都に出て岡本豊彦に入門二年に及び、その間に頼山陽に経史を、香川景樹に国学、和歌を学んだ。長崎行きを企てたが果たせず、江戸に戻った。天保十二年(1841)、東北各地を巡遊。明治期に入って漆芸界の第一人者となり、明治七年(1874)、外務省御用をうけ、明治十年(1877)以降は各博覧会に出品、審査員も務め、明治十九年(1886)、皇居造営御用杉戸絵を描き、明治二十三年(1890)、帝室技芸員となった。明治二十四年(1891)、年八十五で没。
(長敬寺)
長敬寺
長敬寺に遠藤胤緒(もしくは胤統)の墓がある。残念なことに墓地は工事中で遠藤家の墓石に近づくことができなかった(台東区西浅草1‐2‐7)。
舊遠藤 東子爵家累代之墓(遠藤胤緒の墓)
遠藤胤緒は寛政五年(1793)の生まれ。父は大垣藩主戸田氏教。享和元年(1801)、遠藤胤冨の養子となり、文化八年(1811)、家督を継ぎ、同年十二月、従五位下但馬守に叙任された。天保四年(1833)、大阪城玉造口定番となり、天保八年(1837)二月、大塩平八郎の乱鎮定に活躍し、三老中連署の感状を賜った。天保十二年(1841)、出府し若年寄に任じられ、嘉永五年(1852)、勝手掛および西丸造営ならびに海岸防御筋用掛を命じられ、同年十二月には二千石を加増された。安政元年(1854)十一月、江戸湾台場築造の用掛、安政三年(1856)、蝦夷地開拓の用掛、安政五年(1858)には将軍家茂将軍職宣下の用掛を務めた。安政六年(1859)には外国事務掛を命じられ、露国使節ムラヴィヨフに面謁のため酒井忠眦とともに品川沖停泊の露艦に至り、芝愛宕下天徳寺で露使に応接した。万延元年(1860)閏三月、神奈川開港に尽力した労を賞賜され、城主格を命じられ、本丸造営用掛、国益主法掛、外国貿易筋用掛、和宮婚姻大礼用掛。文久元年(1861)には陸海軍備向ならびに軍制の用掛を命じられた。のち若年寄を免じられ、従四位下民部大輔に叙任され、雁之間参席を命じられた。文久三年(1863)、願いにより隠退し、嫡孫胤城(第三男)へ家督を命じられた。元治元年(1864)十二月、中務大輔と改称した。明治三年(1870)、七十八歳で没。