史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

根津 Ⅳ

2022年05月14日 | 東京都

(玉林寺つづき)

 井上文雄と間宮永好という二人の歌人の墓を訪ねて、玉林寺を再訪した。墓地に入る所で寺の方と出会い、目的を告げると井上と間宮の墓を案内していただいた。

 

井上文雄塚

 

井上家之墓(井上文雄の墓)

 

 井上文雄は寛政十二年(1800)の生まれ。医家として田安家に仕えた。官を離れて日本橋茅場町に住した。岸本由豆流、一柳千古を歌文の師とした。新宮藩の水野忠央にも出入りして「丹鶴叢書」の編集にもあたった。歌は歌集を好んで読んだ。性質任侠の風があり、困窮の文人たちの世話もした。晩年「諷歌新聞」の歌が政府の忌諱に触れ。入獄の憂目にあった、江戸明治初期歌壇の殿将といわれる。明治四年(1871)、年七十二で没。墓石の先頭に「文雄院歌先明道居士」という法名が文雄のものである。

 

源朝臣永好墓(間宮永好の墓)

 

 間宮永好(ながよし)は、文化二年(1805)、江戸に生まれ、水戸と東京に住して、国学を小山田与清に師事して、松屋と号した。水戸藩の倭書局に入り、編輯に任じられた。維新後は朝廷に仕えて神祇権大史になった。和歌をよくし、筆礼も巧みであった。著書「国学者伝記集成」は慶長以来諸家著述目録を引いて掲げている。その他、静嘉堂文庫には妻と共著の詠草(自筆)があり、その手校本に「倭名類聚鈔」「散木弃歌集」「職原抄」などがある。明治五年(1872)、年六十二歳で没。

 ご案内していただいたお寺の方によれば、最近末裔の方も足が途絶えており、住職さんもこの墓石の撤去を考えているとのことである。

 

(天眼寺)

 天眼寺には江戸中期の儒者太宰春台の墓がある。また忍藩主松平家の菩提寺でもあり、忍藩士の墓も散見される。東条琴台(下田歌子の父)の墓も天眼寺にあるというので、墓地を歩いてみたが、どうやら琴台の墓は改葬されたようである(谷中1‐2‐14)。

 

天眼寺

 

春臺太宰先生之墓

 

松平家之墓(忍藩松平家の墓)

 

 幕末の忍藩主松平忠誠(ただ実)の墓は行田市の天祥寺にあるが、忠誠の養子で忍藩知藩事を務めた松平忠敬は天眼寺に眠っている。

 

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西ヶ原 Ⅱ

2022年05月07日 | 東京都

(七社神社)

 

七社神社

 

 飛鳥山公園近くの七社神社は、西ヶ原の鎮守社であり、渋沢栄一が飛鳥山に邸宅を構えたことをきっかけに氏子となっている。大正九年(1920)には、栄一らの寄附により社務所が建てられている(現在の社務所は昭和四十二年(1967)に建て替えられたもの)。

 

七社神社社号額

 

 本殿に掲げられている社号額は渋沢栄一の揮毫によるもの。境内では、渋沢栄一のシルエットをデザインにしたお守りや絵馬が販売されている(北区西ヶ原2‐11‐1)。

 

七社神社絵馬

 

祭枯松文碑

 

 飛鳥山別業南園にあった松が枯れたことを、渋沢栄一は深く悲しみ、友人の漢学者三島中洲に文の作成を依頼し、自ら揮毫して建てた碑である。建立は明治四十四年(1911)。

このところ墓を訪ねても探し当てることができず、一日を費やしてほとんど収穫なしという日もあったが、この日は竹ノ塚、入谷、赤羽、王子で悉く目当ての墓と出会うことができた。四打席連続ヒット、つまり猛打賞の一日であった。

 

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王子 Ⅵ

2022年05月07日 | 東京都

(金剛寺)

 

金剛寺

 

鹿島萬平翁之碑

 

 金剛寺の本堂前に鹿島万平の顕彰碑が建てられている(北区滝野川3‐88‐17)。鹿島万平は、横浜開港時に綿花貿易で巨利を得た実業家であるが、明治以降、滝野川に綿糸工場を設立した。老後も滝野川に隠棲したため当地とは所縁が深い。撰文は細川潤次郎。

 

(音無橋)

 

音無橋

 

 音無橋は昭和四年(1929)に、石神井川(北区では音無川と呼ばれる)に架かる橋として誕生した。音無橋の建築や開通式協賛会に渋沢栄一が支援したといわれる。

 

(旧醸造試験所跡地公園)

 

酒類総合研究所

 

 醸造試験所は、明治三十七年(1904)、大蔵省醸造試験所の清酒醸造工場として設立され、醸造方法の研究や清酒の品質改良などが行われていた。第一工場は「赤煉瓦酒造工場」とも呼ばれており、建物には日本煉瓦製造会社のレンガが使われていた。平成二十六年(2014)、国の重要文化財に指定された。内部は通常非公開(北区滝野川2‐6‐30)。

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赤羽 Ⅱ

2022年05月07日 | 東京都

(大松寺)

 

大松寺

 

 大松寺墓地に山崎美誠の墓がある(北区西が丘1‐35−18)。

 

山崎美誠墓

 

 山崎美誠(よしなり)は、寛政九年(1797)の生まれ。生家は代々薬種商であったが、幼少から好学心強く、小山田与清の門に学び、家業を疎んじて勉学したため、家を零落させ、ついに家業は子に譲り、天保年間下谷金杉に隠居し、代表作「三養雑記」を著わした。同好の士と所蔵の名器・図書等の鑑賞会「耽奇会」を催し、その図録「耽奇漫録」二十巻を刊行、当時世評が高かった。文久三年(1863)、年六十七で没。没年は安政三年(1856)の説もある。

 

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鶯谷 Ⅴ

2022年05月07日 | 東京都

(安楽寺)

 

安楽寺

 

 安楽寺墓地のほぼ中央に南画家野口幽谷の墓がある(台東区根岸4‐1‐3)。

 

野口幽谷之墓

 

 野口幽谷は、文政十年(1827)の生まれ。健康を害したため家業である大工を諦め、絵事を志し、椿椿山に学んだ。渡辺崋山、惲南田に傾倒して主に花鳥画を描き、その精緻な描写と精妙な賦彩に特色があり、山水画の田崎早雲と並び称された。明治十年(1877)、第一回内国勧業博覧会褒状、明治十七年(1884)、第二回内国海外共進会銀賞、明治二十八年(1885)、第四回内国勧業博覧会出品の「菊花群鶏図屏風」が妙技二等賞を受け、その間明治二十六年(1893)、帝室技芸員に任命され、日本美術協会審査員等も務めた。門下に益頭峻南、松林桂月らが出た。明治三十一年(1898)、年七十二歳で没。

 

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竹ノ塚

2022年05月07日 | 東京都

(東岳寺)

 

東岳寺

 

 東武伊勢崎線竹ノ塚駅から徒歩十分。東岳寺には高名な浮世絵師歌川(安藤)広重の墓や顕彰碑がある(足立区伊興本町1‐5‐16)。

 

一立齋廣重墓

「一立齋」は広重の雅号である。

 

廣重

 

廣重塚

 

 初代歌川広重は、文化八年(1811)、初代豊国の門に入ろうとしたが果たさず、豊広の門下となり、一年にして歌川広重の名を許された。狩野派、南宋画・四条派をも学び、西洋画の技法も取り入れて、浮世絵における風景画を新興・発展させた。天保三年(1832)、御馬献進の随員として上洛した折の「東海道五十三次」(保永堂版)が出世作となった。以後も江戸をはじめ各地の風景を静かな暖かみのある筆致で多数描いている。初期には美人画、役者絵、武者絵にも筆を染めた。また花鳥画も能くし、絵本、狂歌本、草双紙などにも作品が多い。安政五年(1858)、年六十二にて死去。死因は流行のコレラと伝えられる。

 記念碑には広重の辞世が刻まれている。

 

東路へ筆を残して旅の空

 西の御国の名どころを見ん

 

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