(玉林寺つづき)
井上文雄と間宮永好という二人の歌人の墓を訪ねて、玉林寺を再訪した。墓地に入る所で寺の方と出会い、目的を告げると井上と間宮の墓を案内していただいた。
井上文雄塚
井上家之墓(井上文雄の墓)
井上文雄は寛政十二年(1800)の生まれ。医家として田安家に仕えた。官を離れて日本橋茅場町に住した。岸本由豆流、一柳千古を歌文の師とした。新宮藩の水野忠央にも出入りして「丹鶴叢書」の編集にもあたった。歌は歌集を好んで読んだ。性質任侠の風があり、困窮の文人たちの世話もした。晩年「諷歌新聞」の歌が政府の忌諱に触れ。入獄の憂目にあった、江戸明治初期歌壇の殿将といわれる。明治四年(1871)、年七十二で没。墓石の先頭に「文雄院歌先明道居士」という法名が文雄のものである。
源朝臣永好墓(間宮永好の墓)
間宮永好(ながよし)は、文化二年(1805)、江戸に生まれ、水戸と東京に住して、国学を小山田与清に師事して、松屋と号した。水戸藩の倭書局に入り、編輯に任じられた。維新後は朝廷に仕えて神祇権大史になった。和歌をよくし、筆礼も巧みであった。著書「国学者伝記集成」は慶長以来諸家著述目録を引いて掲げている。その他、静嘉堂文庫には妻と共著の詠草(自筆)があり、その手校本に「倭名類聚鈔」「散木弃歌集」「職原抄」などがある。明治五年(1872)、年六十二歳で没。
ご案内していただいたお寺の方によれば、最近末裔の方も足が途絶えており、住職さんもこの墓石の撤去を考えているとのことである。
(天眼寺)
天眼寺には江戸中期の儒者太宰春台の墓がある。また忍藩主松平家の菩提寺でもあり、忍藩士の墓も散見される。東条琴台(下田歌子の父)の墓も天眼寺にあるというので、墓地を歩いてみたが、どうやら琴台の墓は改葬されたようである(谷中1‐2‐14)。
天眼寺
春臺太宰先生之墓
松平家之墓(忍藩松平家の墓)
幕末の忍藩主松平忠誠(ただ実)の墓は行田市の天祥寺にあるが、忠誠の養子で忍藩知藩事を務めた松平忠敬は天眼寺に眠っている。