(富部神社)
南区呼続(よびつづき)四丁目の冨部(とべ)神社は、慶長八年(1603)、清須城主松平忠吉が創建したといわれる。慶長十一年(1606)、病気快癒の報恩のため、本殿、祭文殿、拝殿、回廊などを寄進し、さらに神宮寺として天福寺を建てた(維新後、神仏分離により廃寺)。江戸時代を通じて、歴代の尾張藩主から黒印地として毎年百石が寄進された。
富部神社
鳥居の横に明治天皇の駐蹕記念碑が移設されている。滞在は明治元年(1868)九月二十七日。
明治天皇御駐蹕之處
(富部神社)
南区呼続(よびつづき)四丁目の冨部(とべ)神社は、慶長八年(1603)、清須城主松平忠吉が創建したといわれる。慶長十一年(1606)、病気快癒の報恩のため、本殿、祭文殿、拝殿、回廊などを寄進し、さらに神宮寺として天福寺を建てた(維新後、神仏分離により廃寺)。江戸時代を通じて、歴代の尾張藩主から黒印地として毎年百石が寄進された。
富部神社
鳥居の横に明治天皇の駐蹕記念碑が移設されている。滞在は明治元年(1868)九月二十七日。
明治天皇御駐蹕之處
(南陽神社)
南陽神社
名古屋市港区の南陽中学の南にある南陽神社は、日清戦争以後の戦死戦病死者を祀る神社である。大正十二年(1923)、靖国神社から分霊を受けた。当時は南陽忠魂社と称していた。
鬼頭景義・勘兵衛宅跡
境内には鬼頭景義・勘兵衛宅の長屋門が修理移築されている。
鬼頭景義は、寛永八年(1631)から明暦三年(1657)に至る二十七年間、尾張・美濃で二十七ヶ所、二万二千余石にのぼる新田を開拓した人物である。この地に居住した景義直系の子孫には、代々勘兵衛を名乗る者が多く、そのため勘兵衛屋敷と呼ばれた。
太平洋戦争で建物の大半が焼失し、現在は明治十三年(1880)、明治天皇巡幸の際に使われた長屋門のみが残されている。
明治天皇福田行在所
(東ノ宮神社)
東ノ宮神社
名古屋市瑞穂区神穂町の東ノ宮神社では、狭い境内に大正期に建てられた明治天皇覧穫之所碑と昭和になって建てられた明治天皇八町畷御野立所碑がある。
明治天皇覧穫之所
題字は尾張徳川家の第十九代当主徳川義親(松平春嶽の五男)。
明治天皇八町畷御野立所
当地は、明治元年(1868)に明治天皇が稲の収穫をご覧になった水田の跡である。
(ファミリーマート中川富川町店)
明治天皇御駐蹕之所
この日、新居浜から名古屋に移動し、名古屋駅近くのビジネスホテルに宿泊した。岡山からの新幹線がよりによって信号故障により十五分遅れとなった。十五分程度の遅れであれば、まったく気にならないのだが、この日は日没までの一時間を使って、近鉄烏森(かすもり)駅周辺の明治天皇聖蹟碑を歩いて探訪する予定を立てていたので、気が気でなかった。
ホテルに荷物を置いて、飛ぶように近鉄の普通電車に乗り、烏森駅を目指す。最初の訪問地は、佐屋街道沿いにある天神児童遊園地(名古屋市中川区長良町3‐2‐2)である。
ところがそこに行ってみると
――― 当所に建立設置されていた『明治天皇御駐輦之所』の石碑は、長良八劔社境内に移設しました。 長良八劔社
と書かれた立て看板がポツンと置いてあるだけであった。
日本国内に入った瞬間、ベトナムから持参したスマホが使えない状態になってしまい、グーグルマップで検索もできない。八劔神社がどこにあるかも分からないので、取り敢えず次の目的地である、冨川町のファミリーマートの前にある明治天皇碑を目指すことにした。
十五分ほど佐屋街道を東に進み、長良橋を渡ったところに立派な石碑が建てられている。
明治元年(1868)十二月十八日、明治天皇が当地に滞在したことを記念したものである。
(長良八劔神社)
長良八劔神社
佐屋街道を烏森駅方面に戻り、途中で店仕舞いをしていた老女に長良八劔神社の場所を訊いたところ、直ぐ近くであることが分かった。何とか日没までに行き着くことができた。
本殿の裏側に明治天皇御駐輦之所碑が移設されている。明治二年(1869)三月十六日の滞在跡である。
明治天皇御駐輦之所
(名古屋別院)
翌日は雨であった。地下鉄の始発に乗って東別院駅で下車。名古屋別院を訪ねた。
織田信長の父信秀が天文十一年(1542)頃。熱田を掌握し、東方の今川に備えるために築城したのが古渡(ふるわたり)城である。現在、名古屋別院のある辺りに築城されていたとされる。
真宗大谷派 名古屋別院
古渡城趾
明治天皇行在所舊址
明治十一年(1878)から明治二十七年(1894)まで、当地における明治天皇の宿泊は六回を数えた。近くには明治天皇名古屋大本営碑も立っている。
明治天皇名古屋大本営