① 氷川丸のこと
私が始めてアメリカへ行ったのは昭和34年、1959年のことですが、このことを書く際にどうしても素通りできないひとつの想い出があります。それは、現在横浜港に赤錆で船体が無残な姿でつながれている「氷川丸」のことなのです。今の大型客船に見慣れている方にとって、あのわずかに1万トンを超えたかぐらいの貨客船が太平洋を横断していたことは想像ができにくいかもわかりません。船体の安定装置のスタビライザーにしても、ハイテクのなかった当時のことですから、アリューシャン沖あたりで結構派手に揺れた記憶があります。<stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas></formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 247.2pt; HEIGHT: 162.6pt"></shape><imagedata o:title="59-2氷川丸" src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata>
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出航準備の氷川丸(今よりもきれいな船体だった)<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype>
この船は日本郵船のそれこそフラッグシップとして横浜-シアトル間の定期航路の貨客船として活躍しました。戦時中、真っ白な船体に塗り替えられ、病院船として働いたこともあります。幸い、戦争で沈没を免れた数少ない貴重な船のひとつです。建造は昭和5年、アールヌーボーの雰囲気の1等客室が好評で、戦前、チャップリンはじめ日本贔屓(びいき)の有名人が数多くこの船を利用したようです。昭和30年代から宝塚のアメリカ公演、これから申し上げるフルブライト留学生、高校生の留学などを一手に引き受けました。今、私の手元に残っている氷川丸の「乗船案内」と題したパンフレットがあります。そこには、「すててこ姿で船内を歩くな!」とありましたが、まだ海外旅行が解禁になるだいぶ前でしたから、船旅に慣れない日本人がこんな姿で外国人と出会うのを船会社が危惧したからなのでしょうか。
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出航風景(日本を後にするのでテープが飛び交った)
当時はまだジェット旅客機がなかったころでしたから、今ではもうお目にかかれないパンナム(Pan American Airways)のターボプロップ「空飛ぶ2階建て」のストラトクルーザーが羽田サンフランシスコ間に就航していました。航続距離がもたないので給油のため羽田からウエーキ、ミッドウエイそしてホノルルで1泊しなくてはなりませんでした。今から思うと、アメリカはすなわち遠い国というイメージが強かったかと思います。
当時まだ渡航制限が厳しく自費留学は極めて少なくそれもアメリカに身元保証人が居り、生活の保障がドルでできなければならなかった時代です。1ドル360円しかも日本には外貨であるドルが少なく、持ち出しは一人50ドルまででしたから、それこそ闇で500円もしたものを補充しなくてはなりませんでした。こうした意味からも、政府が保証する交換留学生制度というのは人気があったわけです。横浜シアトル間は13日かかりますから一日1時間時計の針を遅らせればちょうど時差分に当たりまったく時差ぼけはこの航路では発生しません。 <shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"></shapetype>
洋上の氷川丸で(結構若かった?)
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洋上の氷川丸(この写真は貴重でしょう!)
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二等船室からの眺め(かなり閉塞感あり)
フルブライト留学制度というのは、アメリカの上院議員であったフルブライト氏が提案し1946年に法律として議会を通過しました。彼の発想は、わが国への原爆の投下にその大きな理由があったということです。氏は、世界の人がお互いにもっと知り合う機会を作れば無残な戦争など避けられる、すべてのアメリカ人に外国を知ってもらうのは無理だから、次世代を担う世界の若者たちにアメリカを見てもらう、いわゆる国際体験の機会を与えようというのがその発想です。
ですから、単に休暇であわただしく見て回るのではなく2,3年という定住型の留学をしてもらい、アメリカの生活になじむことに狙いがありました。この法律が当時まだ伝統的に教育や文化事業に関心の薄いアメリカ合衆国において、ましてや旧敵国人を招くなどという発想は議会を通るはずがなかったことは至極当然でしたでしょう。そこで、彼は名案を考えます。海外ことに戦敗国に残っているアメリカの在外資産をそれぞれの国に売却し、その支払いという形で留学生をアメリカに送る経費としてそれぞれの国にこれを負担させるというものでした。
戦後どの国もドル不足に悩んでいましたし、その支払いは自国の通貨で対応可能ということですから払うほうも楽なわけです。つまり、この法案が議会をうまく通過した最大の理由はアメリカの在外資産をうまく処理できるということをうたい文句とし、留学生制度をつけたしたのです。この法案がほとんど抵抗なく上下両院を通過し、1946年に法律として大統領が署名して成立しました。日本は1951年に1回目の留学生を送り込みました。(以下続く)