交通リスクコンサルタントの小林實さんは私が1960年にオハイオへ留学した時大変お世話になった方です。彼は留学後、警察庁の研究所で長い間、交通安全の研究を続けて来ました。最近は独立し、有限会社、「シグナル」を経営しながら、交通リスクコンサルタントとして講演活動をしています。
その小林さんが「交通安全時評」という文章を2006年5月から毎月一遍ずつ書いて、HPに掲載しています。交通安全学の専門用語が混じった随筆集ですが、その内容に深い考察や日本文化へ対する批評も含まれています。大変考えさせる内容ですので、その中から面白そうな内容の時評を5編ほど選んで、このブログの連載記事としてご紹介したいと思います。尚、2006年5月から2012年11月の第78回時評までの全ては、http://www.signal-net.co.jp/2011/08/post-507.html に御座います。
========小林實著、2011年10月の時評========
福島原発の爆発が無かったら日本はどのように変わったか?
こういう想定はいささか不見識かと思いますが、仮に、3月11日の大地震とそれに伴う大津波の影響を大きく受けず、福島第一原発があのような異常事態に陥らなかったとしたら、日本はどのように変わったでしょうか? もちろん、想像を絶する今回の地震と津波は自然のなせる仕業ですから、これは人間の力ではどうしようもありません。しかし、原発のほうはというと、大地震の揺れや大津波の影響は何らかの形であったでしょうが、その後の二次災害などを見ると、「人災」の部分が大きいように思います。
仮に、最悪の事態である「メルトダウン」が回避されたと想定してみましょう。日本の原発の安全性は高い―という認識がますます深まり、結果的に人々は節電・計画停電などを経験せず、日本がこれほどまで原発に電力を依存していることなどお構いなく、電気の恩恵を享受していたことでしょう。薄暗い繁華街もなく、自動販売機の照明も明るいままだったでしょうし、書店の店頭には大震災や原発・放射能に関する書物が今ほどには並んでいなかった、いや、むしろないに等しかったといってよいでしょう。
東京電力のテレビコマーシャルも、相変わらず家庭の「オール電化」を促すものが流されていたに違いありません。放射能による避難指示などもなかったでしょうし、放射能汚染など想像もつかなかったでしょう。原発推進派はますますその勢力を強め、脱原発派は片隅に追いやられていたと思うのです。
現状維持で大丈夫…と過信
一歩譲って、仮にあのような想像を絶する大津波ではなく、ある程度の津波がきて、福島第一原発の被害が軽微だったとすると、東電や原子力安全・保安院は「安全性に万全を期していたので、今回の危機を乗り越えられた」と胸を張っていたに違いありません。そして、防備体制を強化するのではなく、現状維持で大丈夫だ―という自信(過信)を深めていたに違いありません。しかしそれは、いずれくる可能性の高い大災害を後世に先送りした―、寺田寅彦氏の言う「大災害は忘れたころにやってくる」「災害はますます進化する」という二つの格言を、未来に先送りしただけのことです。
今から25年前にチェルノブイリの原発事故が起きた際、わが国の原発担当の行政部門は、誇らしげに「わが国の原発の稼働状況はきわめて良好であり、いまやそれは世界の認めるところ」と自負(と過信)に満ちた声明を出しています。これが、その後の原発の“安全神話”なるものにつながり、以来、原発のもつ巨大なリスクを覆い隠す便利な「電力」という効用に目を奪われてしまった―といえるでしょう。
物理学者の伏見康治氏は、原発が生活の一部となり慣れっこになることが一番怖い―と言っています。テレビにもよく登場した原子力安全委員会の斑目(まだらめ)委員長は「長年、技術を過信するあまり、原発に対する安全行政はおろそかになっていた。事故は回避できるという自信のほうが強くなり、規制をより強くしようとするDNAが育たなかった」といみじくも言っていますが、何をいまさら…という感じです。
日本の原発に対する「安全ボケ」を、3月11日の大災害が目覚めさせてくれた―と言うにはあまりにも大きな代償を支払ったわけですが、これを、大自然からの「啓示」として受け止めることはできないでしょうか。もちろん、こうした大事故は起こってほしくありませんし、起きないに越したことはありません。ただ、被災された方々に対しては大変不謹慎な言い方になりますが、もし今も平穏が続いていたとしたら、そして原発に対する意識や安全対策が何も変わらないままだとしたら、その負荷は将来に持ち越され、時間の経過とともに負荷は着実に増大し、ひとたび大地震が発生したならば、今回以上に被害が拡大するであろうことは明らかです。
無事故が続いているときこそ警戒を…
ところで、原発事故に比べ、交通事故というものはごく日常的な出来事であり、かつ被害の拡大は小規模ですが、「事故のリスク」という点に関しては同じです。こちらは、原発のような多重防御の複雑なシステムではなく、極めて単純で、かつ人間サイドがより積極的に安全に関与することを要求するものです。交通事故の防止は日常的な課題ですが、常に備える態度と緊張感をもって対処すれば、事故のリスクを最小限にとどめておくことができるはずです。
「事故ゼロ」を続けておられる企業はたくさんあるでしょうが、自分の会社は皆の力で今日まで無事故で過ごしている、社員を信頼しているから大丈夫だ―というトップの方のいわば安全神話といいますか、慢心があるとすれば、それは今回の原発事故における東電の体質と同じではないか…と考えられます。
リスクには、バイアス(思い込み・先入観)がついてまわります。たとえば、過去の業績が良く、事故が起きていない企業では「うちの会社は絶対事故が起こらない、安全だ」というバイアスが生じやすくなります。あと1ヶ月で無事故記録が1年間持続する―といったときなど、いわばゴール(目標)に近づいたときにも一種の緊張というか、達成させたいという異常心理が働きます。これもリスクのバイアスの一つです。無事故が継続している場合にこそ「これは警戒警報だ、イエローカードだ」という意識を忘れないよう、会社のトップは心がけたいものです。(この項終わり)
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筆者プロフィール
小林實(こばやし・みのる)
1959年慶應義塾大学大学院修士課程修了。警察庁入庁、科学警察研究所勤務。同研究所勤務の間、米国厚生省訪問研究員、フィリピン大学交通訓練センターでの教育指導などに従事。1989年交通部付主任研究官を最後に退官後、(株)損害保険ジャパン顧問、(財)国際交通安全学会顧問、主幹総合交通心理士。現在、交通リスクコンサルタントとして活躍。
『運転学のすすめ』『安全への視点』『運転の構図』『あんぜんかわらばん』『クルマ社会の安全管理』『なぜ起こす交通事故』など著書多数。当社からは『安全運転管理のスタンス』『安全運転管理の心理学』を発行。
楽しいクリスマスが近づきました。家族で食卓を囲んで何時もより豪華な夕食をします。シャンパンを抜きます。ケーキも切ります。あるいはレストランで美味しいものを食べるのも良いものです。プレゼントの交換もあるでしょう。
そして24日や25日には近所の教会へ気軽に行ってみましょう。この2日はどの教会でも一般の人々を歓迎します。
私の住んでいる小金井市では宗派の違う11の教会が共同して一般の人々のへの案内ポスターを作り、各家庭に配布します。
全国、何処でもクリスマスの24日と25日は2回、3回とミサや礼拝を行います。
例えばカトリック小金井教会では24日は17時、19時、21時と3回あります。
25日は6:30時と11時と2回ミサがあります。
他の教会も2回、3回とクリスマス礼拝があります。その時間は教会の案内板に出ています。
ご自分とご家族の都合の良い時間に参加できます。クリスマスの歌を唄って楽しんでください。
教会にはクリスマスツリーもありますし、イエス様が馬小屋で生まれた様子を示す楽しい飾りもあります。
教会に行くと信者たちは穏やかになって初めての人々へも親切にします。
イエス様の教えの「汝の隣人を愛せ」を実行しようとするのです。
この言葉の意味はあなたの隣にいる夫や妻や子供を愛せという意味もあるでしょう。しかし私は、あなたの隣にいる宗教の違う人も愛せという意味も含んでいると思います。これこそが世界の平和にとって大変重要な教えと思います。
一家そろって楽しいクリスマスを過ごしますようにお祈りいたします。
我が国の産業は分野ごとに非常に閉鎖的な世界を作っています。それは江戸時代の各地の藩のように独立しています。その技術分野で別れているは素人の意見を拒絶します。
今回の中央高速道路のトンネルの天井板の落下事故が何故起きたか理解するためにはこの日本の閉鎖的な技術集団の存在を認めれば簡単に理解できます。
1枚で1トンもある重い天井板をトンネルの頂上へ差し込んだボルトで吊っていたのです。そのボルトを接着剤で固定していたのです。経年変化でその接着剤がどれだけ劣化するかは試験していなかったのです。
第一接着剤で天井板を吊るなどというやり方は非常識です。危険だと素人だって感じる筈です。
山にトンネルを掘る技術者は掘った内部をコンクリートで固める技術者と別の専門です。前者は鉱山掘削の技術分野であり、後者はコンクリートの固化と強度を専門にする土木工学の専門家です。
天井板を吊るのはトンネルの内装と換気の専門家です。そしてボルトの固定方法を接着剤の製造と強度の専門家に任せてしまったのです。ボルトを接着剤で固定するという非常識極まりない施工方法がそのまま放置されたのです。
それぞれの分野は完全に独立していますからトンネル全体の安全を担当する責任者が何を指示してもその意見は素人の意見ですから無視して良いのです。
この精神的風土が消えて無くならない限り日本は安全な国にはならないのです。
先の福島原発の爆発も原子炉の格納容器の強度と製造方法を研究する技術者は原子炉の冷却系統を作る技術者とは全く別の技術者です。
格納容器を丈夫に作り、ジェット機が突っ込んでも割れないと自慢していた話を何度も聞いたものでした。ところが冷却水の配管の脆弱性は誰も指摘しなかったのです。冷却システムの巧妙性にだけを考え、配管の脆弱さは誰も考えなかったのです。
その上、冷却が止まった炉心で水素が発生し、それが建屋内に充満して大爆発したのです。その事情は最近掲載した以下の2つの記事に明快に指摘してあります。
管野 勛崇著、「ある老技術者が原発に関して若者へ遺す一文、その二」
原子力村では素人の常識的な意見を拒絶します。そのような体質の原子力の専門家がいくら安全を強調してもを何処かに脆弱な部分が残ります。
要するに専門別の壁を取り払って素人の常識で現在止まっている50基ほどの原発の安全性を議論すれば良いのです。
素人だって50基ほどの原発の安全度の順位くらいはつけられます。
高台にあるか? 冷却水の配管系統は地震でも壊れないか? 停電に備えた予備電源への「切り替え訓練」を実施しているか? 水素が建屋に充満しないような建屋の構造になっいるか? などを基準にして点数をつければ安全度の順位がつくのです。
安全度や高い原発から再稼働して行き、危険な原発を廃棄して行けば良いのです。
このような常識が通用しない精神文化が我が国に存在しているのです。ですからこそ私は原発は危険だと憂慮してているのです。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)