後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今年の藤の花の写真をお楽しみ下さい」

2018年04月20日 | 写真
季節の移り変わりは早いですね。
ついこの間、桜が散ったと思っていましたらもう藤の花が咲いています。先程、都立薬草植物園に行ってその写真を撮ってきました、
裏の雑木林の散歩道も良かったです。もうすぐ皐月です。
風薫る五月も間も無くやって来ます。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。





共産主義が日本へ与えた深い影響、その三

2018年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
戦前の日本は軍国主義のせいで自由がありませんでした。戦後は日米安保の枠組みでアメリカの政策へ反対する自由がありませんでした。特に日本が経済成長を達成するまでは経済的にもアメリカに隷属していたのです。1980年頃、鄧小平が実権を握るまでの中国は貧しい国だったのです。
このような日本の社会の状況では共産主義は若者の憧れでした。共産主義国家の実態を知らない日本の若者にとって、共産主義は自由を与えるものと見えたのです。たとえそれが幻想だったとしても共産主義は若者の自由の砦のように誤解されていたのです。
国家や社会による束縛を嫌う若者たちにとって、共産主義は若者たちを自由へ解放するイデオロギーだったのです。
このような書き方は戦前、戦後の日本の社会の閉塞感を知らない人々にとっては理解しがたいものです。
そこで今日は北海道帝国大学のある学生が軍人の指導に反発して共産党に入党した実例をご紹介いたします。その若者の辛い一生の物語です。

話が回りくどいことをお許し下さい。
小生は淋しい山林の中に小屋を持っています。もう45年間も通っています。そこは高級別荘地とはあまりにも違い、自然がいっぱいある淋しいところです。鹿や猪や猿が走りまわっている山奥です。
その一帯には質素な小さな別荘も沢山あります。水道は自家水道でガスはありません。
そんな場所なので小屋の価格が格安なのです。そいう所にはお金持ちは来ません。つつましい生活から貯金をした人が自然の中で過ごすという大きな夢を持ってやって来るのです。横浜や東京からやって来ます。とにかく皆がロマンチストなのです。移住して住み着いた人もいます。
移住したある男性は北海道帝国大学で軍部の指導に反発して日本共産党に入党したのです。そして共産主義者として生涯を送ったのです。

1番目の写真は彼の住んでいた別荘の前に広がる牧草地の風景です。
彼は東京を離れ、山梨の甲斐駒の見える所に家を建て、この牧草地のすぐ隣に独りで住んで居ました。彼とは20年以上付き合いました。そして2012年6月に会ったのが最後になってしまいました。
私の小屋の近所をよく散歩していたので、時々会いました。いつもニコニコしていて、優しそうな老境の人です。その風貌が善良そうでした。雑木林の中を独りで歩く様子に気品があり、背筋が通ったような雰囲気でした。
時々、私の小屋に寄ってくれました。いつものように椅子をすすめ話します。
山に来たら、前歴や職業のことを聞くのは御法度です。ですから20年以上彼と交流がありましたが、何をしてきた人なのか一切分かりませんでした。
ところがある時、彼が自分の前歴を話し出したのです。ニコニコしながら、「私は共産主義者でした」と静かに言います。
大正13年生まれ。都内の旧制中学、旧制高校を卒業後、山岳部のある北海道帝国大学へ進みます。中学時代から山岳部で登山をしていたので山岳部のある大学を選んだのです。
その北国の大学で共産主義に出合うのです。純粋で、ロマンチストの彼は乾いた紙が水を吸うようにすっかり共産主義を吸いこんでしまったのです。丁度、第二次世界大戦の始まった頃でしたので軍部は北大の学生に飛行場建設の作業を命じたのです。
彼はこの命令に反発を感じました。軍部独裁の風潮へ反発したのです。当時の若い彼にとっては共産党に入って軍国主義に反対する決心をしたそうです。
卒業は終戦直後でしたが、すぐに東京の代々木の共産党本部へ行って入党してしまったのです。そして代々木の本部で生涯働きました。徳田球一さんや、野坂参三さんや、志賀義雄さんなどの部下として働いたのです。この3人の性格の違いを面白おかしくいろいろ話してくれました。
しかし戦後は軍部に代わってマッカーサーが共産党を弾圧しました。当然、彼は日本の官憲に追われ、おちこちへ逃走する生活だったそうです。しかし彼は一度も捕まらずに逃げおおせたと言っていました。
彼の学生時代は下宿生活でした。札幌で下宿していた家のお嬢さんと結婚します。
しかし官憲の取り締まりが奥さんの親族全てに及ぶのを見て、離婚を決意します。
戦前は「主義者」が親類に一人でも居ると一族が酷い目に会う時代だったのです。戦後の日本の官憲の取り締まりも同様だったのです。
思わず長話になってしまいました。
フッと気が付くと周りの林に夕闇がせまっています。足元が暗くなると危ないので、家内とともに彼を小川の渡り場の所まで送って行きました。
「またお会いしましょう!」と言って別れました。小川の向こうの雑木林の中に彼の後ろ姿が次第に小さくなって行きます。彼が帰る道だけがほの白く見えます。
2012年6月に、パンが好きだという彼に、家内が東京で買ったパンを届けたことがありました。彼は留守中でしたが、すぐ私達の小屋へお礼を言いに来ました。そして「ボケ」が進んできたので、間もなくお別れになるかも知れないと言います。
彼に会ったのはそれが最後になりました。
2012年の7月に山小屋へ行った時、彼の意識が混濁してしまったので救急車で病院に入ってしまったと近所の人から聞きました。その後、遠くの病院に行ってしまったのです。もう二度と会えません。

2番目の写真は雨戸の閉まっているその後の彼の家です。

3番目の写真は彼の家の前の牧草地から撮った甲斐駒岳の風景です。彼を偲んで2014年の4月8日に撮った写真です。大正13年生まれなので、生きていれば95歳になる筈です。時々、彼の思い出を懐かしんでいます。

今日ご紹介したある共産党員の話は一例に過ぎません。日本の戦前、戦後の若者たちが共産主義に魅力を感じたのは当時の社会の閉塞感が原因だったのです。それに比べ現在の日本の社会の自由さは素晴らしいと思います。現在の日本の若者は自由でのびのびとしています。戦前、戦後のように共産主義に憧れる若者は非常に少なくなりました。
その上、日本共産党は綱領から暴力革命路線を廃棄したのです。良いことです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)