後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

共産主義が日本へ与えた深い影響、その一

2018年04月09日 | 日記・エッセイ・コラム
明治維新以来、西洋の思想や主義が怒涛のように日本へ流れ込んで来ました。資本主義や民主主義や共産主義、そしてキリスト教などが何の脈絡もなく日本へ流れ込んだのです。
それらは日本人とその社会へ深い影響を与えたのは当然です。
士農工商の封建社会しか知らなかった日本人にとってはさぞ驚きの連続だったに違いありません。

今日は共産主義の深い影響の一例として朝日新聞へ与えた影響を書いてみようと思います。
朝日新聞は戦後に共産主義の影響を受け、中国やソ連のような共産国家へ同情した体質を持つようになったのです。
誤解を避けるために先ず書いておきます。日本は成熟しつつある民主国家ですから一新聞社が日本政府へ反対する記事を書こうが、親中国的な体質を持っていてもそれは全く自由です。
国家権力で弾圧すべきではありません。あるいは朝日新聞の不買運動もすべきでもありません。自由にさせてるのが良いのです。それが民主主義というものです。
さて、それでは朝日新聞はどのような報道をして来たでしょうか?
一例を上げると、朝日新聞は中国の文化大革命を高く評価した報道をしていました。毛沢東の民衆を犠牲にした権力闘争で数百万人の死者を出した文化大革命を高く評価していたのです。
そして本多勝一記者などによる日本軍の中国における残虐行為の記事や本が日本社会へ与えた影響は決して小さなものではありませんでした。
皆様のご記憶にもある慰安婦問題ももともとは朝日新聞の誤報記事から始まったのです。

それでは何故、朝日新聞がこのような体質になったのでしょうか?
この問題に対して、理路整然とした説明を見つけましたので以下にその抜粋をご報告いたします。
詳しくは田辺敏雄氏のホームページ、『「朝日」は何を、どう報じて来たか?』、http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-1.html にあります。
朝日新聞は昭和前期(~1945年8月)を中心とする日本軍の犯した残虐行為を大々に報じました。
その結果として、いわゆうる「自虐史観」が社会を風靡したのです。
その先駆けとなったのは1971(昭和46)年8月に始まった連載「中国の旅」 であったと言われています。
「中国の旅」という一新聞社の一連載(約40日間)だけで自虐史観が形成されたわけではもちろんありません。
当時の日本の若者や進歩的文化人が中国の文化大革命にも影響を受け、それを称賛していたのです。このように日本の社会は「毛沢東の共産主義」の大きな影響を受けていたのでしょう。
このような社会情勢を受けてマメディアがバスに乗り遅れるなとばかり、日本軍の悪行発掘に精を出したのです。
その上、近現代史を専門とし、歴史学会をリードしていた左派系の大学教授たちが足並みをそろえ「毛沢東の共産主義」を高く評価したのです。日教組が牛耳る教育界も「平和教育」という大義名分のもと、教科書、授業をとおして、日本軍の残虐行為を生徒へ教えていたのです。

一方アメリカの占領軍総司令部GHQは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 (WGIP)を繰り広げていたのです。
 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」 (全十回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。
 もちろん、12月8日の初回は、日本の真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。
 この連載は後に単行本となりますが、学校教材として使用が命じられたため、10万部が売れたとのことです。
 連載の初日、まず「南京虐殺」が取り上げられました。日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道です。 この時の昭和20年12月8日付けの朝日には2万人の市民、子供が殺戮されたとなっていました。
 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されたのです。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。

このような社会風潮へ対して、後の時代になって異議を唱える人もいました。
その一人が曽根綾子でした。
曽野 綾子 が産経新聞に連載しているエッセイの「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」で明快な反論を書いたのです。尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています。その2010年10月29日付の記事の一部抜粋を示します。
「今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず中国から脅しを受けながら、特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けたのです」と書いたのです。
 朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者(曽根綾子)にも書くことを許さなかったのです。
「私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかった」と書いたのです。
 40年前といいますからまさに1970年頃になります。共同通信社を含むほとんどの新聞は、日頃の言とは裏腹に己の目先の利益のために紙面を中国に売り渡したのです。
裏を返せば、紙面に載る中国関連記事は、報道、論説、論壇等を問わず中国の称賛だけがまかり通ったことになります。
 「北京の空は青かった」「ハエが一匹も見当たらない」「子供たちの眼は輝いていた」式の報道を私も読まされました。同時に馬鹿々々しいという反論も週刊誌などで読みましたが。
 曽野綾子は「私にいわせればマスコミは正気で『発 狂』していた」と表現し、当時の報道の責任を厳しく問い糺したのです。

あまり長くなるので今日はこの辺で止め、後は続編で書くことにします。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、甲斐駒岳の麓の山里で撮っ花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)