後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う(1)鶴川宿と上野原宿

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
過ぎ去った時代を想像して懐かしく想う。古い街道をさまよって失われた時を探しもとめる。何故か心が静かになり空色の幸せな気分になる。それが老境の私の趣味です。
妻籠宿、馬籠宿、奈良井の宿、そして大内の宿は何度も行って静かな幸せな気分で帰って来ました。
そこには素晴らしい宿場町が完全に保存されています。でもあまりにも遠方なのです。
晴れた日の午後に気楽に出掛けるわけにはいきません。
しかし考えてみると近くにも古い街道もあります。日本橋から下諏訪までの江戸五街道の一つの旧甲州街道です。
宿場町は中山道の奈良井の宿と異なり完全には保存されていません。しかし街道沿いの家々は軒の長い旅籠風に建てられたものが多いのです。そして江戸時代の本陣も保存、公開してあります。
昨日は久しぶりに旧甲州街道の鶴川宿と上野原宿まで行ってきました。交通の辺鄙な鶴川宿には江戸時代の旅籠風の家々があります。懐かしい風景です。一方、上野原町は鉄道の駅が出来て発展しました。旧甲州街道には商店が立ち並び江戸時代の風情は消えています。
ただその時代から続く「酒饅頭」を作っている店が数軒あります。過ぎ去った時を求めて永井酒饅頭店から素朴な酒饅頭を沢山買って帰りました。そんな老境の趣味を昨日撮ってきた写真で示します。

1番目の写真は旧甲州街道の宿場の位置を示した地図です。昨日行った鶴川宿と上野原宿は山梨県で、この地図の真ん中近くにあります。甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいます。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道です。旧甲州街道は現在の甲州街道とほぼ同じところを通っていますが、その小佛峠は現在の甲州街道の北です。それに相模湖は江戸時代には無かった人造湖なので、相模湖宿は存在しません。それに相当する場所には小原、与瀬、吉野の宿が置かれていました。

2番目の写真は鶴川宿を示す石碑です。鶴川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通しの坂を下り、右折して鶴留川の川原の方角へ下ります。この下る道が旧甲州街道です。鶴川の橋を渡った処に写真に示したような「鶴川宿」という石碑が立っています。宿場はこの石碑から坂道を登った場所にあります。

3番目の写真は現在の鶴川宿の風景です。特に保存した宿場町ではないので普通の民家が並んでいるだけです。しかし現在の甲州街道から別れているので車の往来も無い静かな所です。

4番目の写真は旧甲州街道から分れた昔の風情が残っている道の写真です。白壁の家と倉が旧懐の情を起こさせます。

5番目の写真は旧街道に面した家の写真です。最近改築したような家ですが2階の軒を街道の方向に長く伸ばして作ってあります。このような構造は江戸時代の宿場の旅籠の建物の特徴です。このような家は旧甲州街道のあちこちに沢山あります。21世紀になっても江戸時代の旅籠の形が残っているのです。何故か心が静まります。

6番目の写真も軒を街道の方向に伸ばした家です。本来なら1階には軒が無く2階の軒だけを長く伸ばすものです。軒下の2台の車は江戸時代には無かったものです。

7番目の写真は鶴川宿の本陣と考えられる立派な門のある家の白壁の倉です。甲州街道は甲州や信州などからの参勤交代の行列が通った道でした。甲府城に詰める甲府勤番や八王子千人同心の武士達が江戸への往復で通った道です。また江戸庶民が富士講に通った道でもありました。そして幕府御用達の宇治茶を江戸まで届けるお茶壺道中も通ったそうです。
そんなことを想いながら鶴川宿を散策して来ました。

8番目の写真は鶴川宿から江戸に向かい次の上野原宿の現在の旧甲州街道の風景です。ここは明治に鉄道が通ったお陰で江戸時代の風情は消えてしまいました。シャッターを下ろした商店の並ぶ淋しい街道町です
しかし3、4軒の酒饅頭を作っている店だけは健在です。

9番目の写真は古い永井酒饅頭店の写真です。上野原を通うれば必ず酒饅頭を買う店です。甘い物が好きだった家内の父へお土産として買った店です。何十年もの間、変わらず素朴な酒饅頭を作っている創業いらい100年以上の店です。昨日も10個買い今朝は朝食としてコーヒーと共に食べました。酒麹で発酵させた分厚い皮が美味しいのです。江戸時代の味です。

それはさておき最後に旧甲州街道の45の宿場町を書いて置きます、
日本橋、内藤新宿、下高井戸宿[杉並区]、上高井戸宿[南烏山]、国領宿[調布市国領町]、下布田宿[調布市布田]、上布田宿[調布市布田]、下石原宿[調布市下石原]、上石原宿[調布市上石原]、府中宿[府中市宮町]、この後で多摩川を渡ります。
日野宿[日野市日野本町]、横山宿[八王子市横山町]ここで現在の甲州街道と分けれ裏高尾の道に入って行きます。

駒木野宿[八王子市裏高尾町]、難所の小仏峠[八王子市裏高尾町]、小原宿[神奈川県相模原市緑区小原]、与瀬宿[緑区与瀬本町]、吉野宿[緑区吉野]、関野宿[緑区小渕]、上野原宿[山梨県上野原市上野原]、鶴川宿[上野原市鶴川]、野田尻宿[上野原市野田尻]、犬目宿[上野原市犬目]、下鳥沢宿[大月市富浜町鳥沢]、上鳥沢宿[大月市富浜町鳥沢]、猿橋宿[大月市猿橋町猿橋]、駒橋宿[大月市駒橋]、大月宿[大月市大月]、下花咲宿[大月市大月町花咲]、上花咲宿[大月市大月町花咲]、下初狩宿[大月市初狩町下初狩]、中初狩宿[大月市初狩町中初狩]、白野宿[大月市笹子町白野]、阿弥陀海道宿[大月市笹子町吉久保]、黒野田宿[大月市笹子町黒野田]。

此処から難所の笹子峠道になります。笹子峠[大月市笹子町黒野田]、駒飼宿[甲州市大和町日影]、鶴瀬宿[甲州市大和町日影]、勝沼宿[甲州市勝沼町勝沼]、栗原宿[山梨市上栗原]、石和宿[笛吹市石和町市部]、甲府柳町宿[甲府市城東]、韮崎宿[韮崎市本町]、台ヶ原宿[北杜市白州町台ヶ原]、教来石宿[北杜市白州町下教来石]、蔦木宿[富士見町落合]、金沢宿[茅野市金沢]、上諏訪宿[諏訪市諏訪]、下諏訪宿[下諏訪町]

これらの宿場町は私の甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋への行き帰りによく通って写真を撮ってあります。
それらの宿場町を連載として今後ご紹介したいと思います。皆様も江戸時代に帰った思いでお楽しみ頂けたら幸いです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


藤田嗣治画伯の愛国心と悲劇、そして神の愛

2018年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスで有名な藤田嗣二画伯は1886年に東京で生まれ 1968年にスイスで死にました。享年82歳でした。お墓はパリの郊外にあります。
彼の生涯を考えてみると次の3つの時期に分けられると思います。
(1)フランスで活躍し、「乳白色の肌」の裸婦像などで絶賛を浴びた時代
   (1913年、27歳で渡仏、1940年帰国)
(2)帰国し、戦争中に陸軍美術協会理事長として率先して戦争画を描き国威発揚に活躍していた時代
(3)戦後、フランスに逃げ、フランスの国籍を得て洗礼を受け、宗教画を描いていた時代
  (1949年渡米、フランスに行き帰化、1968年に死去)
今日の記事で私が主張したいことは、偏狭な愛国心は危険な愛であり、一方神の愛は人間に真のやすらぎを与える愛だという事実を主張したいのです。天才画家の運命も例外ではありませんでした。
フランスで画家として活躍し絶賛を浴びた後、帰国し、軍部に協力したのです。そしてその偏狭な愛国心は敗戦で挫折します。
戦後はフランスに逃れ、神の愛を知り洗礼を受け、幸せな晩年を過ごしたのです。
彼の一生は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生でした。
それでは上に書いた(1)、(2)、(3)の3つの時期の藤田嗣二画伯の作品を見てみましょう。

1番目の写真は「乳白色の肌」の裸婦像です。この乳白色は彼独特の手法で描いたもので、彼が一躍有名になったのもこのような裸婦画のせいでした。

2番目の写真は彼の婦人画の一例です。裸婦画でない普通の絵画でも彼の画家としての天才ぶりを発揮していたのです。

3番目の写真は1941年の、「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」と題する大きな油彩です。ノモンハン事件で戦死した遺族の依頼で藤田画伯が描いた戦争画です。

4番目の写真は日本軍が初めて玉砕をした、「アッツ 島の玉砕」の油彩です。
この絵画がアッツ島陥落後に東京で展示された時、藤田画伯は軍服のような国防色の服を着て、この絵画の前に立ったのです。
そして彼はこの絵の前に遺族の弔慰金の募金箱を置き、観覧に来た人々からの浄財を集めていたのです。 人々が弔慰金を入れると藤田画伯は丁寧に敬礼をして感謝していたそうです。

5番目の写真は秋田の七夕祭りの様子を描いた非常に大きな絵画です。絵の前に並んでいる人間の大きさと比較してご覧ください。秋田に長期間滞在して描いた大作です。彼は日本の平和な風景も描いていたのです。

6番目の写真はランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で藤田画伯が建てた「平和の聖母礼拝堂」です。

7番目の写真は藤田画伯の描いた「平和の聖母礼拝堂」の壁画です。戦後は日本の国籍を捨てカトリックの洗礼を受け、教会の壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。
レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。
多くの日本人画家は印象派の真似をしますが、レオナーレ・フジタだけは真似をせず独創的な芸術を創ったのです。その作品は彼の思想や私生活とは関係なく、現在でも世界中で高く評価されています。

しかしそれにしても、何故、レオナーレ藤田は大日本帝国陸軍の要請で陸軍美術協会理事長になり数多くの戦争画を描いたのでしょうか?その原因を考えてみます。
彼の父は森 鷗外が就任していた陸軍軍医総監という役職についていました。それは陸軍中将相当の地位だったそうです。
兄の嗣雄の義父は、陸軍大将児玉源太郎です。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野がいました。
幼少のころから陸軍特有の偏狭な軍国主義の雰囲気の中で育ったのです。藤田嗣二はもともと軍国主義者だったのです。ですから戦争画を描いた原因が理解できます。
その上、パリで絵描きと成功すればするほど藤田は内心では日本人としてのアイデンティティーを思い悩んでいたに相違ありません。
1940年に帰国し、陸軍からの要請で戦争画を描いたのは自然な成り行きです。彼は間違いなく率先して戦争に協力したのです。
一般的に言えば愛国心は非常に重要な愛の一種です。しかしその中身が問題です。
私自身は強い愛国心を持っていますが、いつも偏狭な愛国心だけは避けてきたつもりです。
それでは偏狭でない愛国心とは何でしょうか?それは人類愛に裏打ちされた愛でなければなりません。人類はみな平和に幸せに暮らすべきだという思想が裏にあり、表では自分が生まれ育った国を大切に思うような愛国心です。それは戦争を拒否する愛です。
この人類愛はキリスト教の神の愛と共通するのです。
戦後、日本で戦争協力者として迫害された藤田画伯はフランスに逃れ、そこで神の愛を知ったのです。

戦後、占領軍は藤田画伯を戦犯として逮捕するという噂におびえて知人宅に潜んでいたそうです。
逮捕はまぬがれましたが、彼の心をひどく傷つけた のは人々の執拗な非難でした。とくに特高にいじめられた共産主義者の非難は陰湿で耐えられなかったようです。
そしてついにフランスへ亡命するように逃れ、1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナーレ・フジタと称したのです。しかしフランスのマスコミも戦争協力者の藤田画伯には冷ややかだったそうです。
所詮、人間の愛は儚いものです。しかし神の人間を愛する心は永遠なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===レオナーレ・フジタに関する参考資料=====
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、Léonard FoujitaまたはFujita, 1886年11月27日ー1968年1月29日)は東京都出身の画家・彫刻家。現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家である。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家である。
藤田嗣治は、1886年(明治19年)、東京市牛込区新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父・藤田嗣章(つぐあきら)は、陸軍軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鴎外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。
義父は陸軍大将児玉源太郎である(妻は児玉の四女)。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野が、従兄には小山内薫がいる。このように父や義父が陸軍の中将や大将であったので自然軍国主義者になったのだと思います。
第二次世界大戦が勃発し、翌年ドイツに占領される直前パリを離れ再度日本に帰国した。
フランスに長らく暮らし欧米の事情に通じていた藤田とて、緊迫の一途をたどる当時の政治情勢に逆らうことはできず、日本においては陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手がけ、『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』『アッツ島玉砕』などの作品を書いたが、敗戦後の1949年この戦争協力による批判に嫌気が差して日本を去った。また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあった。
1949年にフランスに逃げた藤田は、1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消)、1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなった。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死去した。遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られた。日本政府から勲一等瑞宝章を没後追贈された。
以上の文章の出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%97%A3%E6%B2%BB です。