私ども高齢者は聖徳太子は「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」などを成し遂げた偉大な人物だと学校でならいました。
しかし近年の歴史学者の研究により、それは間違いと言われ、現在、多くの教科書では「厩戸王」や「厩戸皇子」という名前で登場しています。「厩戸王」が死んでから50年後に天武天皇が天皇の権威を強化するために「厩戸王」を聖徳太子と称して数々の偉業をしたことにしたのです。
ですから以前の教科書は事実に反する大間違いを記述していたのです。
「聖徳太子」は厩戸皇子の存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されています。
また清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説をとりあげて記述しています。
歴史家らから、厩戸皇子の存在はともかくとして、「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることが増え、学問的には疑問視されるようになっているのです。その結果、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっています。
つまり将来は「聖徳太子」の名前すら知らない人が増えていくのです。
それはさておき、「厩戸皇子」と「聖徳太子」の関係はどうなっているでしょうか?
いろいろ調べましたが以下の説明が一番明快なのでご紹介いたします。
歴史上実在した「厩戸皇子」は何をした人物?
https://toyokeizai.net/articles/-/118796
Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?
いました。「厩戸皇子」のことです。でも、「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王」です。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、答えは「いた」ということになります。
Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。
ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。
たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と「厩戸王」との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。
Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。
「厩戸王(うまやとおう、574~622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。しかし「聖徳太子がすべてやった」とは考えにくいのです。
Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?
彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」などです。こうして書き連ねるだけで膨大です。
冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。
Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?
聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。
もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。
Q6. 憲法十七条はあったのですか?
ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。
Q7. 冠位十二階はあったのですか?
ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。
遣隋使派遣、法隆寺建立も証拠はなしです。
Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?
ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。
遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。
Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。
Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。
そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。
ここまでの話を整理してみましょう。
★ 聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。
★ ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、厩戸王自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。
★ 少なくともこの時代に、厩戸王が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきたのです。「一度に民衆十人の訴えをお聞きになって、それぞれに明快な判断をお下しになった」と我々が教わってきた聖徳太子はいなかったのです。
さらに驚くことは聖徳太子の肖像画は別人と判明したのです。
http://historivia.com/cat3/prince_shotoku/3442/
聖徳太子の肖像の絵は「唐本御影(とうほんみえい)」といい、「聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいしおよびにおうじぞう)」とも呼ばれています。
これは聖徳太子を描いた最古のものと伝えられています。30年ほど前までは、一万円札などの紙幣に使われておりました。
この絵が描かれた年代としてはここに描かれている服装や冠などが、厩戸王が生きた飛鳥時代のものではなく、早くとも奈良時代となる8世紀頃のものと考えられており、それに付随して制作年代もその頃と考えられており、平安時代以降の模本とする説もあります。
また、横に描かれている二人の人物は、左が聖徳太子の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ/生没年不詳/用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう/生年不詳~643年12月30日/蘇我入鹿に攻められ自害)と言われています。
1982年に当時の東京大学の史料編纂所長であった今枝愛真がこの絵に描かれた人物は聖徳太子ではないのではないかという説を唱えました。
この肖像画に描かれている人物がかぶっている冠や、着ている服、手に持っているもの等すべてが律令国家が成立してからのものであり、あごひげは後に書き加えられたとされ、以上のことからもこの人物が聖徳太子ではないという説が現在では有力です。
また、中国で描かれたという説もあり、誰を描いたものかということも含めて、どこでいつの時代に描かれたのか決着はついておらず、現在では教科書には掲載されていないか、または掲載される場合、「伝聖徳太子像」(聖徳太子が描かれていると言われていますよという意味)と書かれています。
以上を簡単に言うと「聖徳太子」という虚構の人物は天武天皇が創作したに過ぎない存在なのです。
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)に勝った天武天皇が「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめるために勝手に作り上げたのです。
天武天皇のライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたと考えられています。
日本の歴史には天皇や幕府政権の権威を強めるため歴史事実に反することを事実と変えてしまうことが多いのが普通です。聖徳太子の虚構もその一例に過ぎないのです。
これは明治維新以来の天皇制強化と富国強兵政策のおかげで聖徳太子の功績を学校で教えたのです。
このような歴史の間違いは他にも沢山あるのかも知れません。困ったものです。
挿し絵代わりの写真は昔の教科書にあった聖徳太子の絵と、聖徳太子の肖像が使われていた昔の紙幣の写真です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
しかし近年の歴史学者の研究により、それは間違いと言われ、現在、多くの教科書では「厩戸王」や「厩戸皇子」という名前で登場しています。「厩戸王」が死んでから50年後に天武天皇が天皇の権威を強化するために「厩戸王」を聖徳太子と称して数々の偉業をしたことにしたのです。
ですから以前の教科書は事実に反する大間違いを記述していたのです。
「聖徳太子」は厩戸皇子の存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されています。
また清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説をとりあげて記述しています。
歴史家らから、厩戸皇子の存在はともかくとして、「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることが増え、学問的には疑問視されるようになっているのです。その結果、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっています。
つまり将来は「聖徳太子」の名前すら知らない人が増えていくのです。
それはさておき、「厩戸皇子」と「聖徳太子」の関係はどうなっているでしょうか?
いろいろ調べましたが以下の説明が一番明快なのでご紹介いたします。
歴史上実在した「厩戸皇子」は何をした人物?
https://toyokeizai.net/articles/-/118796
Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?
いました。「厩戸皇子」のことです。でも、「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王」です。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、答えは「いた」ということになります。
Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。
ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。
たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と「厩戸王」との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。
Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。
「厩戸王(うまやとおう、574~622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。しかし「聖徳太子がすべてやった」とは考えにくいのです。
Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?
彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」などです。こうして書き連ねるだけで膨大です。
冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。
Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?
聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。
もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。
Q6. 憲法十七条はあったのですか?
ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。
Q7. 冠位十二階はあったのですか?
ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。
遣隋使派遣、法隆寺建立も証拠はなしです。
Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?
ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。
遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。
Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?
わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。
Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。
そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。
こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。
ここまでの話を整理してみましょう。
★ 聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。
★ ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、
① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作
② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した
③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた
など、厩戸王自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。
★ 少なくともこの時代に、厩戸王が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきたのです。「一度に民衆十人の訴えをお聞きになって、それぞれに明快な判断をお下しになった」と我々が教わってきた聖徳太子はいなかったのです。
さらに驚くことは聖徳太子の肖像画は別人と判明したのです。
http://historivia.com/cat3/prince_shotoku/3442/
聖徳太子の肖像の絵は「唐本御影(とうほんみえい)」といい、「聖徳太子及び二王子像(しょうとくたいしおよびにおうじぞう)」とも呼ばれています。
これは聖徳太子を描いた最古のものと伝えられています。30年ほど前までは、一万円札などの紙幣に使われておりました。
この絵が描かれた年代としてはここに描かれている服装や冠などが、厩戸王が生きた飛鳥時代のものではなく、早くとも奈良時代となる8世紀頃のものと考えられており、それに付随して制作年代もその頃と考えられており、平安時代以降の模本とする説もあります。
また、横に描かれている二人の人物は、左が聖徳太子の弟の殖栗皇子(えぐりのみこ/生没年不詳/用明天皇の第5皇子で母は穴穂部間人皇女)、右が聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう/生年不詳~643年12月30日/蘇我入鹿に攻められ自害)と言われています。
1982年に当時の東京大学の史料編纂所長であった今枝愛真がこの絵に描かれた人物は聖徳太子ではないのではないかという説を唱えました。
この肖像画に描かれている人物がかぶっている冠や、着ている服、手に持っているもの等すべてが律令国家が成立してからのものであり、あごひげは後に書き加えられたとされ、以上のことからもこの人物が聖徳太子ではないという説が現在では有力です。
また、中国で描かれたという説もあり、誰を描いたものかということも含めて、どこでいつの時代に描かれたのか決着はついておらず、現在では教科書には掲載されていないか、または掲載される場合、「伝聖徳太子像」(聖徳太子が描かれていると言われていますよという意味)と書かれています。
以上を簡単に言うと「聖徳太子」という虚構の人物は天武天皇が創作したに過ぎない存在なのです。
厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)に勝った天武天皇が「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめるために勝手に作り上げたのです。
天武天皇のライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたと考えられています。
日本の歴史には天皇や幕府政権の権威を強めるため歴史事実に反することを事実と変えてしまうことが多いのが普通です。聖徳太子の虚構もその一例に過ぎないのです。
これは明治維新以来の天皇制強化と富国強兵政策のおかげで聖徳太子の功績を学校で教えたのです。
このような歴史の間違いは他にも沢山あるのかも知れません。困ったものです。
挿し絵代わりの写真は昔の教科書にあった聖徳太子の絵と、聖徳太子の肖像が使われていた昔の紙幣の写真です。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)