後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

見晴らしの良いドライブウエイの風景写真

2018年10月25日 | 写真
どういう訳か私は若い頃から車の運転が好きでした。車の加速や減速の時に感じる感覚的刺激が好きなのです。加速、減速の時のエンジンの音がたまらいのです。そして左右に揺れる時の感覚が好きなのです。
この感じはヨットの帆走の時も同じように感じました。波に揺られながらセイルが風を掴み、グイと前方に引っ張っていくときの快感がたまらいのです。そして舷側を打つ波の音が好きなのです。
ヨットの方は体力が必要なので75歳できっぱり止めました。車のドライブは安全に気を使いながら現在でも楽しんでいます。
何時も同乗している妻が私の運転は安全で安心だと評価しています。
毎日、ドライブに出ます。今日は一人です。行った所は何時もよく行くコースです。
多摩川を渡り、JR南武線の稲城駅近辺から川崎街道に入ります。そして都立桜ガ丘公園の入り口交差点で左折しました。今日は公園内をあちこちゆっくり走りました。
桜ガ丘公園の横の抜け道を通って「多摩尾根幹線道」に出て帰って来ました。
「多摩尾根幹線道」の沿道には広大なゴルフ場があって見晴らしが良い尾根の上の自動車道です。遠方にはるかに新宿の高層ビル群が見えます。
今日撮って来た写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

1番目の写真は都立桜ガ丘公園から見た多摩市の町並です。遠方の山並みは丹沢山系です。

2番目の写真は桜ガ丘公園の無料駐車場です。何時行っても空いています。

3番目の写真は「多摩尾根幹線道」の沿道にある広大なゴルフ場です。

4番目の写真も「多摩尾根幹線道」の沿道にあるゴルフ場です。

5番目の写真はJR南武線の稲城駅近辺にある崖です。崖の上の樹木が魅力的なのでよく来る場所です。
崖の上の樹木と崖の関東ローム層の重なりを飽きずに眺めています。

昔のお寺と檀家との関係と現在の寺院仏教の衰退

2018年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム
祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父は同じ祖父の後の住職でした。
父も大学の定年後、島根県の曹洞宗の宗安寺の住職になりました。弟も大学定年後、宗安寺の住職になりました。そんな関係で私は戦前の田舎のお寺と檀家の関係を少し憶えています。
遠い昔の記憶のうえ、兵庫県のある山里の正林寺と檀家の関係なので日本全国で同じようだとは思いません。
しかし戦前の農村におけるお寺と檀家の関係が少しだけお分かり頂けると思います。
正林寺は白壁の塀に囲まれ高台にありました。見上げると石段の上に質素な山門がありました。後ろに緑の山があり遠方から見るとそれは美しい小さなお寺でした。
住職の祖父と祖母に3人の兄弟がいました。長男と三男が都会の大学を出ましたが、次男の叔父は祖父のあとの住職になったのです。
最近、老境に至って考えることは、あの貧乏なお寺の息子2人が帝国大学を卒業出来たお金は何処から出たのだろうと不思議に思っていることです。
田舎のお寺には少しばかりの田畑が寺領として付随しています。住職一家の一年間の最小限の食料を作るためにあるのです。祖父のお寺には3、4枚の田圃の寺領がありました。下の集落の周囲にも稲田が広がっています。
寺領の田圃の田植えや稲刈りは檀家の人がしてくれます。収穫した米は寺の倉の中にいれ一年間たべます。
野菜は檀家の人がいつも持ってきてくれます。味噌、醤油も檀家の人が届けてくれます。
この正林寺には墓地がありません。集落のあちこちに小さな墓地があり土葬していたのです。
檀家の人が死ぬと住職が戒名をつけます。その戒名を書いた位牌を二つ作ります。一つは自宅の仏壇に祀り、もう一つは正林寺の本堂の須弥壇のお釈迦様の像の後ろの段の上にならべます。そうして住職は毎朝、釈迦如来像と多くの位牌へお経を詠んで死者の冥福を祈ります。
故人の法事は本堂に親類縁者を招き入れて長いお経を詠みます。
お彼岸やお盆には住職は袈裟を着て集落の一軒一軒を回って短いお経を詠みます。私も子供用の袈裟を着て一緒に檀家まわりをしました。お経もあげました。
お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年ありました。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
このようにお寺の住職は檀家の集落の故人の世話をするのです。その恩返しに檀家の人々は住職一家が生きて行けるように食料を供給するのです。この人関係は慈悲深いお釈迦さまによって見守られているのです。
昔のお寺と檀家の関係は温かいものでした。帰省した私共に対しても檀家の人々は実に温かく接してくれたのです。
しかし戦前の農村は貧しかったのです。お寺も現金収入が無くて貧しかったのです。
祖父の後に住職になった叔父が言っていました。神社仏閣には現金収入が無いので必ずお賽銭を入れなさい。10円でも20円でも入れなさい。この叔父が死んでからもう何十年にもなりますが、私は現在でも神社仏閣に行けば必ず少額のお賽銭を入れます。
こんな貧乏寺なのに長男と三男が都会の大学を卒業出来たのは不思議です。必ずや檀家の精神的な支援があったのでしょう。その恩返しのつもりか父は大学定年後、私財を使って島根県の田舎の曹洞宗の宗安寺の本堂を再建し、住職になりました。現在は私の弟がそこの住職をしています。

戦前の農村におけるお寺と檀家の関係は濃密で温かい関係だったのです。
それなのに何時の間にかお寺と檀家の関係が疎遠になり、良い寺院仏教が消滅しそうな雲行きです。
とくに経済の高度成長の頃から都会に出て来た人が都会の集合墓地に墓を作るようになってからお寺と関係が無くなったのです。これも時代の流れです。
現在は寺院仏教は悪いという人が多いようです、
私はカトリックの信者ですが、戦前のお寺と檀家の親密な関係を懐かしく思って居ます。貧乏な檀家と貧乏な寺でしたが、その関係は心温まるものだったのです。

この写真は正林寺の鐘楼を見上げた光景の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)