後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

人間の悲嘆の山並みがつづく

2018年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
多摩の横山に多摩尾根幹線道路があります。見晴らしの良いドライブウエイです。爽快な気分になるのでよく行きます。その付近に桜が丘公園があり、そこに満蒙開拓団の殉難の碑が並んでいる一画があります。
その横を通って多摩尾根幹線道路へ入ります。
そこを通る度に殉難者の霊気を感じます。悲しい気持ちが湧いてきます。
そして「はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」という「荒野の40年」の中の文章を思い出します。この文章に関する記事は2018年09月14日 に掲載してあります。

今日は都立桜が丘公園の入り口にある蒙開拓団の犠牲者の慰霊碑をご紹介いたします。
その一画の一番奥には「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔があります。その慰霊塔を囲むように全国の都道府県から満蒙へ渡った開拓団の名前を彫った慰霊碑が多数並んでいます。

1番目の写真は開拓団の名前を彫った慰霊碑のほんの一部の写真です。以前に自分で撮った写真です。

2番目の写真は「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔の左手にづらりと並んだ開拓団の名前を彫った慰霊碑の写真です。この写真には写っていませんが、右側にも同じように開拓団の名前を彫った慰霊碑がづらりと並んでいます。

3番目の写真は見上げた空の写真です。満蒙開拓団の悲劇を悼むかのように暗い木立の上に白い雲が流れていました。

満蒙開拓団とは、1931年に起きた満州事変から1945年の敗戦まで、旧満州国や内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約27万人の開拓団のことです。
満蒙開拓団は加藤完治らが考えた移民政策でした。武装した移民による満州国境維持を目的にしていました。従って対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により推進されたのです。
戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増え、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されます。
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡しました。
ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人でした。
この開拓移民は文字通り、難民となり逃避行に向かい、その過程で約8万人が死亡したのです。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれていますが、その死者20万人の4割が拓団員だったのです。

私はこの悲劇を忘れないために毎年、この満蒙開拓団の慰霊碑をお参りしています。
そして戦争の悲劇を忘れないように心に刻んでいます。
そして「荒野の40年」の中の文章を思い出します。
・・・今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲みの念とともに思い浮かべているのであります・・・
そして私は次のように思うのです。
「戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべます。
日本との戦いに苦しんだすべての民族、なかんずく中国と東南アジアの諸国の犠牲者を思い浮かべます。
日本人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で犠牲になった310万人の戦没者を哀しみのうちに思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」

かつて中国大陸やアジア諸国に武力侵攻した日本軍から逃げるために実に多数の人が難民になりました。そして多数の戦没者がでたのです。中国だけでも2000万人以上と言われています。
満蒙開拓団の慰霊碑を見た昨日も心に思い浮かべました。

なお満蒙開拓団の悲劇を忘れないようにする記念館もあります。満蒙開拓平和記念館です。長野県下伊那郡阿智村駒場にあります。

昨日、満蒙開拓団の慰霊碑に参りながら考えたことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

江戸時代以前の関東には城主不明で謎の城跡が沢山ある

2018年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
平安時代末期、鎌倉時代と歴史が流れ、やがて室町時代の「応仁の乱」に至ると関東地方は群雄割拠の戦国時代になります。「応仁の乱」は室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの11年間にわたって継続した内乱でした。
そのころは各地に城が沢山作られましたが、江戸時代以前の城については文献が少なくてよく分かっていません。
僅かに残っている文献から江戸という名前は現在の東京に最初に根拠地を置いた武家、江戸重継に由来しているようです。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の江戸城の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたと考えられています。
その後の15世紀の関東の戦乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が「応仁の乱」の10年前の1457年(長禄元年)に江戸城を築城しました。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめと書いてあるそうです。
ですから太田道灌が1457年に築いた江戸城が現在の東京の発展の出発と考えることも出来ます。
1600年に徳川家康が江戸に幕府を置いてから260年余の江戸時代が始まりました。

現在の東京の江戸時代の歴史はかなり詳しく知られていますが、それ以前の歴史はあまり明確には判っていません。
その理由は現在の東京都の23区内にあった城や館の大部分は江戸時代に消えてしまったからです。
しかし、郊外の城跡は堀跡、広場、出入口の土手、建物の礎石群がそのまま残っているものも多く往時の様子が偲ばれます。
私は引退後にこれらの城跡をかなり丁寧に見てまわりました。車で行って、あまり人のいない城跡を歩き回って観察し考えたのです。
八王子城、滝山城、片倉城、深大寺城、平山氏館跡、石神井城、高幡城などの跡地へは何度も行きました。

1番目の写真は八王子城の見取り図です。八王子市の西の山の中にあります。以下の写真も全て、http://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/hatioujisi.htm から転載させて頂きました。

2番目の写真は当時の鍋や食器が多数発掘された主殿跡の広場です。

3番目の写真は主殿跡の石垣です。
八王子城は北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。
氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移したのです。
この城址には3回ほど城址に登りました。広く大きな城跡で当時の地形が残っていました。
城跡には当時の建物群の礎石や空堀が良く保存されています。発掘調査も行き届き、説明板も丁寧に明快に書いてあります。
この八王子城は1590年に落城しました。文献が残っていて次のようなことが分かっています。
小田原征伐の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められます。
城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠りました。
激戦となり1000人以上の死傷者を出し、その日のうちに城は陥落した。
氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。
この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹します。
関東地方に新しい江戸時代が始まる最後の激戦でした。新領主となった徳川家康はその後八王子城を廃城とします。
この八王子城の城主の氏昭がこの城の以前にいた城が滝山城です。

4番目の写真は八王子市の東の郊外にある滝山城の見取り図です。私はこの城跡にも何度か登り観察しました。

5番目の写真は滝山城から見た多摩川の遠景です。

6番目の写真は敵が攻め込んで来たら引いて倒してしまう曳き橋です。
滝山城跡には壮大な規模の城跡がそのまま残っています。

八王子と滝山城は北条氏昭が小田原城からやって来て関東地方の西部を統治していたときに住んでいました。武田信玄に何度か侵入されましたがその都度撃退しています。
八王子城と滝山城は小田原の北条一族が関東一円を支配していた時代の数多くあった北条一族の城の一部だったのです。
このように城主が分かっている場合もありあすが、誰が作ったかさっぱり判っていない城跡もあちこちにあるのです。

7番目の写真は八王子市の南のはずれにある片倉城の見取り図です。
不思議なのは片倉城の主が分かっていないことです。鎌倉時代よりも前の山城と推定されていますが、誰が作ったか不明です。謎の城跡なので、ロマンを感じ何度も登りました。
 
8番目の写真は頂上にある本丸跡の広場です。

9番目の写真は城跡にある住吉神社でです。
この片倉城のように誰が作ったかが分からない城跡が多摩地方には沢山あるのです。
例えば深大寺城も誰が作ったか確定されていません。
築城した人が判っていない城跡が意外に多いのです。
高幡不動の裏山に登ると頂上に土塁が残っていて、素人目にもある時代に城があったことが分かります。
裏山を下りて高幡不動の和尚さんに尋ねました。しかし文献が無いから知らないの一点張りでした。ただ発掘調査で、鎌倉時代よりも古いと推定されていると言っていました。

学校で習う日本の歴史は天皇や幕府のような中央政権に関する歴史が主なものです。地方の歴史はあまり教えません。
自分で少し地方の歴史を調べてみると判らないことが非常に多いことに驚きます。
歴史の闇に消えてしまった事実が沢山あるのです。失われてしまったものに対する好奇心が湧きあがって来ます。
さらに書けば東京には江戸城の他に、御殿山城、荏原氏館、品川氏館、池上氏館、馬込城、赤堤砦、奥沢城、世田谷城、渋谷城、滝野川城、板橋城、志村城、石神井城、練馬城、深大寺城、立川氏館、平山氏館、小野路城、小山田城、八王子城、滝山城、片倉城、高月城、桧原城などなどもあるのです。これらの城や館は天正18年の秀吉勢の小田原城攻撃によって降伏します。
そうするとすぐに関東一円の北条一族の城や館が秀吉勢に揃って降伏してしまったのです。
そして江戸に入った徳川家康は消滅した数多くの城や館を再び利用することはありませんでした。
直轄領として代官を派遣する場合に川越城や土浦城や行田城は代官の館として利用しただけで、その他の数多くの戦国時代の城は意図的に歴史の闇に葬ったのです。文献も消えてしまいます。

これらの数多くの城や館にはそれぞれ主がいて、家族がいて、武士集団が住んでいたのです。それが江戸時代になると消えてしまったのです。歴史の闇に消えてしまったのです。何かはかないです。無常です。
それにしても城の数の多いのに驚かされます。戦国時代、室町時代の群雄割拠ぶりが想像され感慨深いのです。
現在私が住んでいる東京の多摩地域の歴史は文献が少なく不明なことが多ようです。
しかし城跡を発掘調査をすると当時の家具調度、日用道具、食器、鍋釜などの破片が多数出土し最近、色々なことが分かって来ました。それらの情報は現地の歴史資料館に行くと分かります。

今日は現在の東京に残っている江戸時代以前の城跡について少しご紹介いたしました。
さて皆様かの住んでいらっしゃる土地にも江戸時代以前の城跡や館跡がたくさんあると思います。それをお教え頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)