多摩の横山に多摩尾根幹線道路があります。見晴らしの良いドライブウエイです。爽快な気分になるのでよく行きます。その付近に桜が丘公園があり、そこに満蒙開拓団の殉難の碑が並んでいる一画があります。
その横を通って多摩尾根幹線道路へ入ります。
そこを通る度に殉難者の霊気を感じます。悲しい気持ちが湧いてきます。
そして「はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」という「荒野の40年」の中の文章を思い出します。この文章に関する記事は2018年09月14日 に掲載してあります。
今日は都立桜が丘公園の入り口にある蒙開拓団の犠牲者の慰霊碑をご紹介いたします。
その一画の一番奥には「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔があります。その慰霊塔を囲むように全国の都道府県から満蒙へ渡った開拓団の名前を彫った慰霊碑が多数並んでいます。
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1番目の写真は開拓団の名前を彫った慰霊碑のほんの一部の写真です。以前に自分で撮った写真です。
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2番目の写真は「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔の左手にづらりと並んだ開拓団の名前を彫った慰霊碑の写真です。この写真には写っていませんが、右側にも同じように開拓団の名前を彫った慰霊碑がづらりと並んでいます。
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3番目の写真は見上げた空の写真です。満蒙開拓団の悲劇を悼むかのように暗い木立の上に白い雲が流れていました。
満蒙開拓団とは、1931年に起きた満州事変から1945年の敗戦まで、旧満州国や内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約27万人の開拓団のことです。
満蒙開拓団は加藤完治らが考えた移民政策でした。武装した移民による満州国境維持を目的にしていました。従って対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により推進されたのです。
戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増え、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されます。
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡しました。
ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人でした。
この開拓移民は文字通り、難民となり逃避行に向かい、その過程で約8万人が死亡したのです。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれていますが、その死者20万人の4割が拓団員だったのです。
私はこの悲劇を忘れないために毎年、この満蒙開拓団の慰霊碑をお参りしています。
そして戦争の悲劇を忘れないように心に刻んでいます。
そして「荒野の40年」の中の文章を思い出します。
・・・今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲みの念とともに思い浮かべているのであります・・・
そして私は次のように思うのです。
「戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべます。
日本との戦いに苦しんだすべての民族、なかんずく中国と東南アジアの諸国の犠牲者を思い浮かべます。
日本人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で犠牲になった310万人の戦没者を哀しみのうちに思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」
かつて中国大陸やアジア諸国に武力侵攻した日本軍から逃げるために実に多数の人が難民になりました。そして多数の戦没者がでたのです。中国だけでも2000万人以上と言われています。
満蒙開拓団の慰霊碑を見た昨日も心に思い浮かべました。
なお満蒙開拓団の悲劇を忘れないようにする記念館もあります。満蒙開拓平和記念館です。長野県下伊那郡阿智村駒場にあります。
昨日、満蒙開拓団の慰霊碑に参りながら考えたことを書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
その横を通って多摩尾根幹線道路へ入ります。
そこを通る度に殉難者の霊気を感じます。悲しい気持ちが湧いてきます。
そして「はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」という「荒野の40年」の中の文章を思い出します。この文章に関する記事は2018年09月14日 に掲載してあります。
今日は都立桜が丘公園の入り口にある蒙開拓団の犠牲者の慰霊碑をご紹介いたします。
その一画の一番奥には「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔があります。その慰霊塔を囲むように全国の都道府県から満蒙へ渡った開拓団の名前を彫った慰霊碑が多数並んでいます。
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1番目の写真は開拓団の名前を彫った慰霊碑のほんの一部の写真です。以前に自分で撮った写真です。
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2番目の写真は「拓魂」と大きく彫り込んだ慰霊塔の左手にづらりと並んだ開拓団の名前を彫った慰霊碑の写真です。この写真には写っていませんが、右側にも同じように開拓団の名前を彫った慰霊碑がづらりと並んでいます。
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3番目の写真は見上げた空の写真です。満蒙開拓団の悲劇を悼むかのように暗い木立の上に白い雲が流れていました。
満蒙開拓団とは、1931年に起きた満州事変から1945年の敗戦まで、旧満州国や内モンゴル地区に国策として送り込まれた入植者約27万人の開拓団のことです。
満蒙開拓団は加藤完治らが考えた移民政策でした。武装した移民による満州国境維持を目的にしていました。従って対ソ戦兵站地の形成を目指す関東軍により推進されたのです。
戦争末期の戦局の悪化により、開拓団からの招集も増え、特に1945年7月の「根こそぎ動員」では、約4万7000人が招集されます。
1945年8月9日にソ連軍が満州に侵攻すると、関東軍は開拓移民を置き去りにして逃亡しました。
ソ連参戦時の「満蒙開拓団」在籍者は約27万人であり、そのうち「根こそぎ動員」者4万7000人を除くと開拓団員の実数は22万3000人でした。
この開拓移民は文字通り、難民となり逃避行に向かい、その過程で約8万人が死亡したのです。
敗戦時に旧満州にいた日本人は約155万人といわれていますが、その死者20万人の4割が拓団員だったのです。
私はこの悲劇を忘れないために毎年、この満蒙開拓団の慰霊碑をお参りしています。
そして戦争の悲劇を忘れないように心に刻んでいます。
そして「荒野の40年」の中の文章を思い出します。
・・・今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲みの念とともに思い浮かべているのであります・・・
そして私は次のように思うのです。
「戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべます。
日本との戦いに苦しんだすべての民族、なかんずく中国と東南アジアの諸国の犠牲者を思い浮かべます。
日本人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で犠牲になった310万人の戦没者を哀しみのうちに思い浮かべます。
はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております」
かつて中国大陸やアジア諸国に武力侵攻した日本軍から逃げるために実に多数の人が難民になりました。そして多数の戦没者がでたのです。中国だけでも2000万人以上と言われています。
満蒙開拓団の慰霊碑を見た昨日も心に思い浮かべました。
なお満蒙開拓団の悲劇を忘れないようにする記念館もあります。満蒙開拓平和記念館です。長野県下伊那郡阿智村駒場にあります。
昨日、満蒙開拓団の慰霊碑に参りながら考えたことを書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)