日本民族という言葉を私は好きです。その歴史も大好きです。私は日本文を大切にしている愛国者です。
それが心に沁みついているので、写真を撮る時、嗚呼これは伝統文化の風景だ、嗚呼これは日本にある西洋文化の風景だと区別しながら撮る習慣があります。
そうするとその風景の背後にある人々のいとなみの歴史が見えて来て面白いのです。
明治維新の大きな変革がよく理解出来るので興味深いのです。維新で変わったもの、変わらなかったものが見えて来るのです。西洋の文化がどのように入ってきたかが理解できるのです。
昨日も江の島と茅ケ崎の海岸に行って、2種類の写真を撮って来ました。その対比を見ると日本の文化についていろいろ想われて楽しいのです。
それでは早速、日本の伝統的な風景の写真から始めます。
1番目の写真は江の島の西にある茅ヶ崎の海岸の風景です。この広々とした風景は奈良時代、平安時代から寸分変わっていない筈です。
2番目の写真は茅ヶ崎の海岸の烏帽子岩と波打ち際で遊ぶ母と子供の写真です。
烏帽子岩は昔から変わりません。しかし母や子供たちが西洋の服を着ています。昔は質素な着物を着て遊んでいたに違いありません。
3番目の写真は江の島の弁財天の入り口の門の風景です。入り口の門は近年建てられたものですが、その形が日本の伝統的な風景になっています。
この写真は以前にお正月に江の島に遊びに行った時に撮った写真です。このような風景は多分、鎌倉時代からの伝統なのでしょう。江の島は鎌倉に近い島なのです。
4番目の写真は江の島の弁財天の参道にある日本菓子の店の内部の光景です。創業、寛政元年と書かれたノレンが写っています。江戸時代には江の島の弁財天のお参りが流行って江戸からの人々で賑わったと言います。
この弁財天の歴史をかいつまんで書きます。
欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられています
『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあります。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けてたようです。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになって参道の土産物屋や旅館が賑わったのです。
しかし明治維新は江の島に悲劇をもたらしたのです。
明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔や多くの仏堂や仏像などが破壊されたのです。
明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称させられたのです。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院という宿泊施設は旅館となり「岩本楼」へ改称し現在も存続しています。私も1963年頃に岩本楼に泊まったことがありました。
江の島にはそんな歴史と文化があったのです。
しかし1964年のオリンピックで江の島がヨットレースの会場になってから強烈に西洋文化を代表するヨットのマリーナが島に出来たのです。その西洋文化を象徴するような風景写真を3枚示します。
5番目の写真は江の島ヨットハーバーの風景です。ヨーロッパ文化にとって重要な役割を果たした西洋式の帆船が並んでいます。
6番目の写真はヨットを後ろから撮った写真です。
日本にも昔から帆船がありました。しかし日本の帆船は風に向かってが走れなかったのです。それが決定的な弱点でした。
ヨットと呼ばれる帆船はヨーロッパで設計された図面通り忠実に作られた船です。その部分品一つ一つがヨーロッパ文化を背負っているのです。ヨットを趣味にして25年間乗ってみるとヨットこそヨーロッパ文化が詰まった文化遺産だと深く理解出来たのです。
7番目の写真は江の島のヨットマリーナの全景です。
ヨットにはキャビンの無い小型のものもあります。その小型ヨットのことをデンギィと呼びますが、その置き場のデンギィヤードはこの写真の右側に広がっています。
私がヨットを習ったレッツゴーセイリングというヨットスクールがあった場所です。
この江の島や葉山などの湘南海岸に多数のヨットが入って来たのは戦後です。
石原裕次郎がデインギィに乗っていたことがヨットの流行に拍車をかけたのです。
しかしキャビンを持つ大型のヨットのマリーナが出来たのは1970年代から始まる経済の高度成長の後でした。
なお詳しくは次の記事をご覧下さい。
『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』2011年11月30日 掲載記事。
5,6、7番目のような写真の歴史は比較的に新しく日本の経済の高度成長の後に出来た風景なのです。
このように日本の風景写真を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類して撮るのが私の趣味です。しかし風景によっては2つの伝統文化が混然一体になっている場合もあります。面白いものですが、困っています。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
それが心に沁みついているので、写真を撮る時、嗚呼これは伝統文化の風景だ、嗚呼これは日本にある西洋文化の風景だと区別しながら撮る習慣があります。
そうするとその風景の背後にある人々のいとなみの歴史が見えて来て面白いのです。
明治維新の大きな変革がよく理解出来るので興味深いのです。維新で変わったもの、変わらなかったものが見えて来るのです。西洋の文化がどのように入ってきたかが理解できるのです。
昨日も江の島と茅ケ崎の海岸に行って、2種類の写真を撮って来ました。その対比を見ると日本の文化についていろいろ想われて楽しいのです。
それでは早速、日本の伝統的な風景の写真から始めます。
1番目の写真は江の島の西にある茅ヶ崎の海岸の風景です。この広々とした風景は奈良時代、平安時代から寸分変わっていない筈です。
2番目の写真は茅ヶ崎の海岸の烏帽子岩と波打ち際で遊ぶ母と子供の写真です。
烏帽子岩は昔から変わりません。しかし母や子供たちが西洋の服を着ています。昔は質素な着物を着て遊んでいたに違いありません。
3番目の写真は江の島の弁財天の入り口の門の風景です。入り口の門は近年建てられたものですが、その形が日本の伝統的な風景になっています。
この写真は以前にお正月に江の島に遊びに行った時に撮った写真です。このような風景は多分、鎌倉時代からの伝統なのでしょう。江の島は鎌倉に近い島なのです。
4番目の写真は江の島の弁財天の参道にある日本菓子の店の内部の光景です。創業、寛政元年と書かれたノレンが写っています。江戸時代には江の島の弁財天のお参りが流行って江戸からの人々で賑わったと言います。
この弁財天の歴史をかいつまんで書きます。
欽明天皇13年(552年)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝えられています
『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182年)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあります。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けてたようです。江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が参詣するようになって参道の土産物屋や旅館が賑わったのです。
しかし明治維新は江の島に悲劇をもたらしたのです。
明治元年(1868年)の廃仏毀釈により三重塔や多くの仏堂や仏像などが破壊されたのです。
明治6年(1872年)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称させられたのです。
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院という宿泊施設は旅館となり「岩本楼」へ改称し現在も存続しています。私も1963年頃に岩本楼に泊まったことがありました。
江の島にはそんな歴史と文化があったのです。
しかし1964年のオリンピックで江の島がヨットレースの会場になってから強烈に西洋文化を代表するヨットのマリーナが島に出来たのです。その西洋文化を象徴するような風景写真を3枚示します。
5番目の写真は江の島ヨットハーバーの風景です。ヨーロッパ文化にとって重要な役割を果たした西洋式の帆船が並んでいます。
6番目の写真はヨットを後ろから撮った写真です。
日本にも昔から帆船がありました。しかし日本の帆船は風に向かってが走れなかったのです。それが決定的な弱点でした。
ヨットと呼ばれる帆船はヨーロッパで設計された図面通り忠実に作られた船です。その部分品一つ一つがヨーロッパ文化を背負っているのです。ヨットを趣味にして25年間乗ってみるとヨットこそヨーロッパ文化が詰まった文化遺産だと深く理解出来たのです。
7番目の写真は江の島のヨットマリーナの全景です。
ヨットにはキャビンの無い小型のものもあります。その小型ヨットのことをデンギィと呼びますが、その置き場のデンギィヤードはこの写真の右側に広がっています。
私がヨットを習ったレッツゴーセイリングというヨットスクールがあった場所です。
この江の島や葉山などの湘南海岸に多数のヨットが入って来たのは戦後です。
石原裕次郎がデインギィに乗っていたことがヨットの流行に拍車をかけたのです。
しかしキャビンを持つ大型のヨットのマリーナが出来たのは1970年代から始まる経済の高度成長の後でした。
なお詳しくは次の記事をご覧下さい。
『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』2011年11月30日 掲載記事。
5,6、7番目のような写真の歴史は比較的に新しく日本の経済の高度成長の後に出来た風景なのです。
このように日本の風景写真を日本の伝統的な風景とヨーロッパ文化の影響を受けた風景と分類して撮るのが私の趣味です。しかし風景によっては2つの伝統文化が混然一体になっている場合もあります。面白いものですが、困っています。
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)