老境になると良いことが沢山あります。第一に仕事から解放されます。この解放感は実に良いものです。
そして仕事のための出張ではなく楽しむための旅が出来ます。
その旅に関連したテレビ番組を丁寧に見ます。すると単なる観光案内だけではなく、「人生こそ旅」という深い内容の番組もあります。
私が欠かさずよく見る番組は、世界の村で発見!!「こんな所に日本人」というものがあります。
南米の僻地やアフリカの奥地、あるいは北極圏のイヌイット人の村などに住んでいる日本人を紹介する番組です。
面白い理由が二つ以上あるのです。第一にその奥地に苦労して訪ねて行く途中の風景や人情が非常に興味深いのです。普通の観光番組では絶対に分からない僻地の風景や生活の情景が興味深いのです。
そして第二の理由はその僻地に何十年も住んでいる日本人の個性が面白いのです。皆例外なく幸せに暮らしていますが、その人生の軌跡が独特で、嗚呼、こんな人生もあるんだと感動してしまうのです。
その多くの日本人は若い頃、自分探しの旅に出た人々です。
「自分探しの旅」は後期高齢者には理解しにくいことです。後期高齢者が若い頃は日本が貧しくて、学校を出たら食べて行けるように必死で働いたものです。「自分探しの旅」などと悠長なことを考える余裕などありませんでした。
その上、現在の学校では先生方は進学相談や就職相談はしない事になっているそうです。
生徒達が民間の塾や進学教室で相談しているようです。先生方は生徒の個性を尊重し生徒の将来に干渉しません。自分でよく考えなさいと指導します。ですから生徒は進学や就職を自分で研究して決めて行かなけれいけない時代なのです。
そうするとまず「自分は何者だ?」、「自分は一生何をすれば良いのか?」などの疑問が湧いてきます。
ある若者は自分を探すために外国を周遊します。その時、自分のしたい事を発見してそこに住み着くのです。そしてその地で現地の人と結婚し、子供や孫に囲まれた幸福な老境を迎えるのです。
テレビの「こんな所に日本人」という番組の内容は大体こんなものです。
しかし毎回面白い理由があるのです。世界の奥地や僻地で日本人がしている仕事が実に変わっているのです。奇想天外な仕事で成功しているのです。
後期高齢者の私は、嗚呼、何と独創的な人生なのだろうと感動してしまうのです。今夜もこの番組がテレビ朝日のチャンネルにあります。
それにしても我々の若い頃とは「自分探しの旅」など想像も出来なかった時代でした。
最後にその昔話を書かせて下さい。簡略に書きます。
それは戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。
私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校になった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。
特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。
そして君達は故郷の仙台を出て、広い世の中で日本の復興に努めなければいけない。そして常に高い志を持って立身出世しなさいと教えたのです。若い私はその教えを文字どうり信じ、人生の道しるべにしました。
この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。
照鏡見白髪
宿昔青雲志
蹉タ白髪年
誰知明鏡裏
形影自相憐
鏡に照らして白髪を見る
宿昔 青雲の志
蹉タたり 白髪の年
誰か知らん 明鏡の裏(うち)
形影 自ずから相憐れまんとは
この教えに従って私は仙台を飛び出してアメリカに留学しました。それからいろいろな外国に研究のために旅をしました。
そして年老いて自分の人生を振り返ると上の漢詩の蹉タ白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐という部分が身に沁みるのです。
この意味は以下のようなものです
「何度も挫折を繰り返しているうちに、頭に白いものが目立つ歳になってしまった。いったい誰が考えただろう。鏡に映った姿を見ながら自然に憐れみの情がわいてくる、こんなことになろうとは。」
青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。
当時、外貨の無い日本では外国への自由な旅行は禁止されていました。留学と業務出張だけが許可されていたのです。
私は故郷、仙台の友人や親類の見送りを受け、羽田を飛び立ちました。主翼に4個のプロペラが勢いよく回っているノース・ウエスト機でした。
オハイオのコロンバス空港に着くとボランティアのアメリカ人の学生さんが古い車で迎えに来ていました。
大学では指導教官のセント・ピール先生が歓迎してくれて、いきなり9月の学期から博士コースの講義を3課目聴きなさいと言います。英語に自信の無かった私は困惑しました。
教室で机を並べていたアメリカ人とも親しくなり一生付き合った人も出来ました。
以上のように昔は「自分探しの旅」など想像も出来ない時代だったのです。
それに相当するのが「青雲の志を抱いて郷関を出る旅」だったのです。しかし両者の内容の余りにも大きな違いに愕然とします。これも時代の流れです。
今日の挿し絵代わりの写真はこの記事の構成を考えながら見た小金井公園の秋の夕方の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
そして仕事のための出張ではなく楽しむための旅が出来ます。
その旅に関連したテレビ番組を丁寧に見ます。すると単なる観光案内だけではなく、「人生こそ旅」という深い内容の番組もあります。
私が欠かさずよく見る番組は、世界の村で発見!!「こんな所に日本人」というものがあります。
南米の僻地やアフリカの奥地、あるいは北極圏のイヌイット人の村などに住んでいる日本人を紹介する番組です。
面白い理由が二つ以上あるのです。第一にその奥地に苦労して訪ねて行く途中の風景や人情が非常に興味深いのです。普通の観光番組では絶対に分からない僻地の風景や生活の情景が興味深いのです。
そして第二の理由はその僻地に何十年も住んでいる日本人の個性が面白いのです。皆例外なく幸せに暮らしていますが、その人生の軌跡が独特で、嗚呼、こんな人生もあるんだと感動してしまうのです。
その多くの日本人は若い頃、自分探しの旅に出た人々です。
「自分探しの旅」は後期高齢者には理解しにくいことです。後期高齢者が若い頃は日本が貧しくて、学校を出たら食べて行けるように必死で働いたものです。「自分探しの旅」などと悠長なことを考える余裕などありませんでした。
その上、現在の学校では先生方は進学相談や就職相談はしない事になっているそうです。
生徒達が民間の塾や進学教室で相談しているようです。先生方は生徒の個性を尊重し生徒の将来に干渉しません。自分でよく考えなさいと指導します。ですから生徒は進学や就職を自分で研究して決めて行かなけれいけない時代なのです。
そうするとまず「自分は何者だ?」、「自分は一生何をすれば良いのか?」などの疑問が湧いてきます。
ある若者は自分を探すために外国を周遊します。その時、自分のしたい事を発見してそこに住み着くのです。そしてその地で現地の人と結婚し、子供や孫に囲まれた幸福な老境を迎えるのです。
テレビの「こんな所に日本人」という番組の内容は大体こんなものです。
しかし毎回面白い理由があるのです。世界の奥地や僻地で日本人がしている仕事が実に変わっているのです。奇想天外な仕事で成功しているのです。
後期高齢者の私は、嗚呼、何と独創的な人生なのだろうと感動してしまうのです。今夜もこの番組がテレビ朝日のチャンネルにあります。
それにしても我々の若い頃とは「自分探しの旅」など想像も出来なかった時代でした。
最後にその昔話を書かせて下さい。簡略に書きます。
それは戦後の貧しさが漂っていた頃の仙台の思い出です。主な道路の中央しか舗装されていず、風の日は砂ぼこりが舞っていました。
私はその砂埃りの道を自転車で高校に通っていました。その高校は旧制の中学校がそのまま高校になった学校です。旧制中学のドイツ語や漢文の先生が熱心に教えていました。
特に漢文の先生は情熱的にいろいろな漢詩を朗読しながら教えてくれたのです。
何度も青雲の志を抱いて郷関をいづるという文を教えていたのです。
そして君達は故郷の仙台を出て、広い世の中で日本の復興に努めなければいけない。そして常に高い志を持って立身出世しなさいと教えたのです。若い私はその教えを文字どうり信じ、人生の道しるべにしました。
この「青雲の志」は唐時代の張九齢の次の漢詩の中に出てきます。
照鏡見白髪
宿昔青雲志
蹉タ白髪年
誰知明鏡裏
形影自相憐
鏡に照らして白髪を見る
宿昔 青雲の志
蹉タたり 白髪の年
誰か知らん 明鏡の裏(うち)
形影 自ずから相憐れまんとは
この教えに従って私は仙台を飛び出してアメリカに留学しました。それからいろいろな外国に研究のために旅をしました。
そして年老いて自分の人生を振り返ると上の漢詩の蹉タ白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐という部分が身に沁みるのです。
この意味は以下のようなものです
「何度も挫折を繰り返しているうちに、頭に白いものが目立つ歳になってしまった。いったい誰が考えただろう。鏡に映った姿を見ながら自然に憐れみの情がわいてくる、こんなことになろうとは。」
青雲の志を抱いてオハイオ州立大学へ行ったのは1960年の夏のことでした。
当時、外貨の無い日本では外国への自由な旅行は禁止されていました。留学と業務出張だけが許可されていたのです。
私は故郷、仙台の友人や親類の見送りを受け、羽田を飛び立ちました。主翼に4個のプロペラが勢いよく回っているノース・ウエスト機でした。
オハイオのコロンバス空港に着くとボランティアのアメリカ人の学生さんが古い車で迎えに来ていました。
大学では指導教官のセント・ピール先生が歓迎してくれて、いきなり9月の学期から博士コースの講義を3課目聴きなさいと言います。英語に自信の無かった私は困惑しました。
教室で机を並べていたアメリカ人とも親しくなり一生付き合った人も出来ました。
以上のように昔は「自分探しの旅」など想像も出来ない時代だったのです。
それに相当するのが「青雲の志を抱いて郷関を出る旅」だったのです。しかし両者の内容の余りにも大きな違いに愕然とします。これも時代の流れです。
今日の挿し絵代わりの写真はこの記事の構成を考えながら見た小金井公園の秋の夕方の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)