後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本を愛したニコライを日本人は忘れない

2019年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
この記事は以前に掲載したのでご記憶の方もいらっしゃると存知ます。
また掲載するのは忘れないためです。ご興味のある方はご一読下さい。

幕末にロシア正教を日本へ持ち込んで来たニコライ・カサートキンの一生を簡略にご紹介をしたいと思います。
ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。
 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。
函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。ニコライは書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。明治天皇を敬っていました。日本を強く愛していたのです。そして日本の土になったのです。
ニコライの日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

その中から一つをご紹介します。
1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である。」と。
残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。
ニコライは信徒を慰めます、
「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。
1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。
その葬儀の折には駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。神田のニコライ堂から買って来た葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています。 

東京のお茶の水の駿河台にあるニコライ堂は、1891年、明治24年にニコライによって建てられました。
私は数年前に何度かニコライ堂を訪れ、ある日曜日には9時から12時までの3時間にわたる歌ミサにも出席したことがあります。
私はカトリックですが正教会の礼拝はカトリックに似ていて違和感を感じませんでした。
ニコライの日本への篤い想いを考えながら「イエスの体」のパン片を貰い、神父様の持った十字架へ軽く接吻しました。

ニコライの写真と彼の建てたニコライ堂の写真を掲載いたします。ニコライ堂の写真は数年前に自分が撮ったものです。ニコライ堂は日本にあるキリスト教会のなかでもトップクラスの豪華さと古い歴史がある建物です。

このニコライ堂は一般開放しています。見学は自由です。
日曜日の9時からの歌ミサの礼拝式にも出席してみて下さい。信者でなくても歓迎してくれます。
一度ご覧になることをお薦めいたします

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









===参考資料;ニコライの経歴==================
Wikipedea でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。
日本へやって来たニコライは、スモレンスク県ベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として1836年に生まれました。母は五歳のときに死亡します。
ニコライはベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学しました。
在学中に、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられるようになったのです。
そしてニコライは、函館の在日本ロシア領事館附属礼拝堂が司祭を募集しているのを知りました。すかさず志願して採用されたのです。

神学大学在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなっていたのです。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖されたのです。
そして翌年の1861年に函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任しました。

日本では、新島襄らから日本語を教ったそうです。かたわら精力的に正教の布教に努めます。
函館にて日本ハリストス正教会の最初の信者を得ました。その人は後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨です。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行います。
1869年、1879年に二度帰国しましたが、それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台のニコライ堂の正教会本会で没します。
1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると腐らない遺体が現れたそうです。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖します。日本教会が独立して日本正教会となったのはこのときです。ニコライの遺体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっているそうです。
関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行されました、(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)。
注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)されます。

タイで仏教の最高指導者を訪問するローマ法王

2019年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
フランシスコ教皇はタイと日本訪問の詳細日程を発表しました。
その詳細は末尾に示しました。
この日程で仏教国の日本に関係のある行事が一つだけあります。
それはフランシスコ教皇がタイで仏教の最高指導者を訪問する事です。
2019年11月21日(木)にバンコクの中心地にあるワット・ラーチャボピット寺院を訪問し仏教の最高指導者に会うのです。仏教とキリスト教の友好の為に訪問するのです。

ワット・ラーチャボピット寺院は、1869年にラーマ5世が建立した寺院です。
3枚の写真はワット・ラーチャボピット寺院です。
写真の出典は、https://東南アジア.net/thailand/bangkok_sightseeing_spots/7518/ です。





ご承知のようにタイでは人口の99%が上座部仏教の信者です。そのタイにも壮大なカトリック教会が幾つもあり18万人ほどのカトリック教徒がいます。
余談ながらこのタイ王国のことを少しだけご紹介します。
現在のタイ王国はチャクリー王朝で仏陀の入滅を紀元とする仏教歴を使っている国なのです。
この国は現在でもチャクリー王朝の王様の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。

タイの上座部仏教はインドで大乗佛教が生まれる以前のものでお釈迦さまの教え通りの佛教なのです。
そのタイの佛教の最高指導者をフランシスコ教皇が訪問するのです。意義深いことです。
フランシスコ教皇が日本で佛教指導者に会わない理由は簡単です。日本には仏教の宗派がいろいろあって誰が最高指導者かが分からないのです。タイの上座部仏教はまとまった一つの組織なのです。最高指導者が分かり易いのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料「フランシスコ教皇の詳細日程」================
今年11月に行われる、教皇フランシスコのタイ王国と日本への公式訪問の具体的なスケジュールがバチカン広報局より発表された。
教皇フランシスコは、この二カ国の訪問で、タイ王国を2019年11月20日から23日まで、そして、日本を11月23日から26日まで訪れる。
教皇の日本到着は、11月23日(土)の夕方となる。
4日間にわたる訪日期間を通じて、教皇は東京を滞在の拠点としながら、訪問2日目の11月24日に長崎と広島に赴かれる。
教皇の日本訪問の日程は次の通り、

2019年11月23日(土)バンコクから東京へ
教皇は、タイの首都バンコクを、現地時間の午前9時半、日本に向け出発され、日本時間の同日17時半過ぎ、東京の羽田空港に到着。同空港で教皇は歓迎式に臨まれる。
この後、教皇は都内のローマ教皇庁大使館で、日本のカトリック司教団とお会いになる。

2019年11月24日(日)東京から長崎、広島へ
早朝、教皇は空路で長崎に向かわれる。午前9時過ぎに長崎空港に到着後、「長崎爆心地公園」で核兵器をめぐりメッセージを述べられる。
続いて、西坂公園の日本二十六聖人の記念碑を訪れ、殉教者にオマージュを捧げる。ここで教皇は挨拶を述べ、お告げの祈りを唱えられる。
次いで、教皇はビッグNスタジアム(長崎県営野球場)でミサを司式、説教を行われる。
同日16時半頃、教皇は長崎を後にし、空路で広島へ。広島には18時前の到着を予定している。
教皇は、広島市内の平和記念公園で平和のための集いを行い、この中でメッセージを述べられる。
同日夜、教皇は空路で東京に戻られる。

2019年11月25日(月)東京
この一日、教皇は都内で様々な行事を予定している。
午前中、教皇は東日本大震災被災者との集いをベルサール半蔵門で行い、この席で言葉をおくられる。
教皇は皇居を訪問され、天皇陛下との会見に臨まれる。
続いて、東京カテドラル聖マリア大聖堂での青年との集いを開催、講話を持たれる。
午後、教皇は、東京ドームでミサを司式、この中で説教を行われる。
この後、教皇は官邸を訪問し、首相と会談。同じく官邸で開かれる要人および駐日外交団らとの集いで、教皇は講話を行われる。

2019年11月26 日(火)東京からローマへ
早朝、教皇は上智大学のクルトゥルハイム礼拝堂で、イエズス会員らと私的にミサを捧げられる。次いで、イエズス会SJハウスで、イエズス会員と朝食、病気や高齢の司祭を見舞われる。この後、教皇は上智大学を訪問される。
教皇は、最後の公式行事である、羽田空港での送別式を経て、同日午前11半過ぎ、日本を後にし、ローマへの帰路につかれる。
教皇は、ローマに現地時間同日17時過ぎに到着の予定。
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一方、日本訪問に先立ち、2019年11月20日から23日まで行われるタイ訪問では、教皇は首都バンコクにおいて数多くの行事を持たれる。
教皇のタイ訪問の日程は以下の通り。

2019年11月19日(火)ローマからバンコクへ
イタリア時間19時、教皇はタイの首都バンコクに向けて、ローマから特別機で出発される。

2019年11月20日(水)ローマからバンコクへ
現地時間正午過ぎ、教皇はバンコクの空軍基地に到着。同基地で歓迎式に臨まれる。

2019年11月21日(木)バンコク
バンコクのタイ政府首相府で、歓迎式典。首相府内で、教皇は首相との会見、同国各界代表・駐在外交団との集いを行われる。
ワット・ラーチャボピット寺に、仏教の最高指導者を訪問。
セントルイス病院で、医療関係者との出会いや、患者や障害者へのお見舞いを行われる。
アンポーン宮殿に、ワチラロンコン国王(ラーマ10世)を訪問。
そして、教皇は、国立競技場でミサを司式される

2019年11月22日(金)バンコク
教皇は、バンコク市内の小教区、セント・ピーター教会で、タイの司祭、修道者、神学生、カテキスタとの集いを行われる。
福者ニコラス・ブンカード・キトバムラングの巡礼聖堂で、教皇は、タイの司教団およびアジア司教協議会連盟関係司教らとの出会いを行われるほか、隣接の会場でイエズス会の会員らと私的な集いを持たれる。
続いて、教皇はチュラロンコン大学で、キリスト教の諸教会や諸宗教の指導者らとの集いに参加される。
この後、教皇は、バンコクのカテドラル、アサンプション大聖堂で、若者たちとミサを捧げられる。

2019年11月23日(土)バンコクから東京へ
教皇はバンコクの空軍基地で送別式に臨み、日本訪問のため、午前9時半、東京に向け出発される。