後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本人の印象派の画家は海外では知られていない」

2022年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
私は日本人の印象派の画家は海外で評価されているのか心配になり調べてみました。そうたら誰も知られていませんでした。
以下はそれに関する質疑応答です。
質問;
日本人の印象派の画家は世界的に認められるのですか?
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/.../q11194319466
 黒田清輝は日本人で初めてヨーロッパで絵の勉強の為に留学した画家とありました。 マネやゴッホと言われる巨匠の影響を絵のタッチから強く感じるものの日本人的なものを感じるような気もするのですがどうでしょうか? 
 速水御舟の洛北修学院村は西洋の絵画にはない雰囲気があるような気がしましたがどうでしょうか? 日本人画家で一番有名で高く評価されたのは葛飾北斎ですがその他の絵はどれくらい評価されているのでしょうか?
答え;yosigamokamoさんから、(2018/8/8 20:1)
日本の近代油画は 欧米では、ほぼ無評価です。 所蔵している美術館自体が ほぼありません。
 日本画ですと ボストン美術館などに所蔵されていますが フェノロサ・ビゲローらの「お雇い外人」らの収集であり その後の世代からは、ほぼ無反応です。
 但し だからと言って、彼らが大したことないとは言えないのです。 黒田や和田は 日本の美術体制・教育を確立したわけですし、 周辺諸国(中国・台湾・朝鮮半島)から 油画を学ぼうとする留学生を招いたのです 。
日本に限らず ヨーロッパ・北米(メキシコを含む)以外の油画作家で グローバルに知られる作家はほとんどいません。
以上が現実なのです。(終わり)


「西洋の美しい絵画(6)温厚なカミーユ・ピサロの油彩画」

2022年05月02日 | アート・文化
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)は1830年に生まれ 1903年に没しました。、19世紀フランスの印象派の画家でした。 
ピサロは1830年にカリブ海の、当時デンマーク領だったセント・トーマス島で生まれます。父フレデリック・アブラハム・ピサロはボルドー出身のユダヤ教徒で金物屋でした。 
パリでは、アカデミックな画家たちの指導も受けたがより自由にモデルを描くことが許される画塾アカデミー・シュイスに通っていました。
1859年にはクロード・モネが、1861年にはポール・セザンヌやアルマン・ギヨマンがパリに来て同じアカデミー・シュイスで学び始めており、ピサロはこの頃彼らと知り合ったようです。そして コローに会いに行きアドバイスを求めています。 
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月にパリに戻り、突然病気に倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
カミーユ・ピサロの油彩画を5枚、http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=1041 からお借りしてお送り致します。

1番目の写真は制作年:1867年、原画サイズ:151.4 x 200.6 cm、所蔵:グッゲンハイム美術館です。
本作に描かれているのはフランスのポントワーズにあるエルミタージュという街です。ピサロは1866年から1883年の間、このポントワーズに住み、この地の風景をたくさん描き残しました。
2番目の写真は【ルーヴシエンヌの景色】制作年:1870年です。
この作品に描かれているルーヴシエンヌは、パリのセーヌ河流域にある村です。
ピサロは1868年秋にポントワーズからこのルーヴシエンヌに移り、普仏戦争が始まる1870年までまでこの地で生活したと言われています。
ピサロはこのルーヴシエンヌの風景をたくさん描き残しています。
3番目の写真は【ポントワーズの閘門】、制作年:1869年、所蔵:個人所蔵です。 
4番目の写真は【アッパー・ノーウッド、クリスタルパレス、ロンドン】、制作年:1870年、原画サイズ:39x50cmです。
 本作にはロンドンのアッパー・ノーウッド地区にクリスタルパレスという通りが描かれています。
ピサロは1870年に起こった普仏戦争から逃れるためにロンドンへ移住し、その時に描かれた作品です。
5番目の写真は【シャポンヴァルの風景 】、制作年:1880年、原画サイズ:54.5cm×65cm、所蔵:オルセー美術館です。
この作品に描かれているシャポンヴァルはフランスのパリの少し北西、オワーズ川のほとりの町です。 


「ロシアのウクライナ侵攻が国際社会へ与えた甚大な影響」

2022年05月02日 | 日記・エッセイ・コラム
平和だった21世紀にこんな酷い軍事侵攻が起きるとは誰も想像していなかったのです。それは世界へ衝撃を与えました。世界の政治、社会、文化へ歴史的な影響を与えたのです。
今日はロシアのウクライナ侵攻が国際社会とへ与えた影響を考えてみたいと思います。
まずグテーレス国連事務総長は国連総会での演説 の抜粋をお送り致します。演説は、「世界は、ロシアによる「国際法違反」を前に団結しなければならない」という趣旨でした。
詳しくは、https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/43709/ をご覧下さい。
ウクライナ侵攻の影響の部分を抜粋し以下に示します。
「第一に、ウクライナ侵攻によって人道資金がさらに不足し、最も脆弱な立場に置かれた多くの人々の苦難が深刻化します」
「第二に、間接的に世界の飢餓を悪化させる可能性があります。ウクライナは世界最大の穀物生産国の1つであり、ロシア連邦は2番目です。紛争により、価格が急騰するおそれがあります」
「第三に、この紛争は気候危機と密接に関連しており、私たちが化石燃料に依存し続けることで、世界経済とエネルギー安全保障が地政学的ショックにより翻弄されることを証明しています」と事務総長は付け加えました。・・・

この危機の解決策は「不可欠であり、緊急」
「最大級の警戒を呼びかけるほどの火災」が世界を分裂させようとする中、総会議場に集まった各国は、団結という「歴史的に重大な責任を果たす」べく、立ち上がらなければなりません。
事務総長は、『私たちの共通の課題』が解決策を見いだす上での一助となっているものの、その提案を前に進めるか否かは、今や各加盟国に委ねられていると述べました。
「しかし、確実なことは、解決策は不可欠であり、緊急であるということです。私たちは、前進をもたらす難しい決断を下さなければなりません」

「核の深淵」をのぞき込む
「私たちは、後世を戦争の惨禍から守るという、国連憲章の基礎となる約束に引き戻されたのです。世界中の多くの人々が、この21世紀に、どうしてこのようなことが起こり得たのかと問いかけています」
「何百万もの人々が国境を越えて避難し、国際法の最も基本的な原則が踏みにじられている時に、私たちはどうしていまだに核の深淵をのぞき込んでいられるでしょうか」

以上の演説は明快にロシアのウクライナ侵攻が国際社会へ与えた甚大な影響を総括しています。
しかし内容は総論であり具体論ではありません。そこで以下ではロシアのウクライナ侵攻日本へ与えた影響を少し具体的に書きます。
(1)多くの国民は自衛隊の軍備を強化し中国やロシアの軍事侵攻を防ぐべしと考えるようになったのです。
(2)アメリカ、NATO諸国は武器は援助するが軍隊はウクライナへ派遣しない。これを見て日本はいざという時日本の安全は日本だけで守ることを考えなければならないと悟ったのです。
(3)輸出入の減少による物価の高騰。
(4)ウクライナの惨状を見て77年間平和だった日本人は戦争を身近に感じた。77年前の戦争の悲惨な状況を思い出して暗い気持ちになっているのです。
他にもロシアのウクライナ侵攻日本へ与えた影響はいろいろあります。しかし長くなるので止めます。

今日はロシアのウクライナ侵攻が国際社会と日本へ与えた影響の幾つかを書きました。写真はウクライナの惨状の様子を示す4枚の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)