終戦後の日本の生活はみじめなものでした。食べ物も無く庭のハコベを茹でて食べた経験もあります。その一方、戦勝国のアメリカの生活は豊かそうでした。テレビや雑誌で見ると特に食べ物は贅沢でした。日本人の憧れでした。そんな時代はアメリカ留学が多くの日本人の夢でした。
昭和33年に東北大学を卒業した私はアメリカ留学を決心しました。お金も無いので徒手空拳で アメリカへ行く決心をしたのです。あるのは青雲の志だけです。さてアメリカへの渡航費を捻出しなければなりません。
いろいろ調べたらアメリカ政府がフルブライト奨学金 から支援してくれることが分かりました。ただしそれに一つの条件があったのです。
留学生を受け入れるアメリカの大学側が留学生の生活費を支給するという条件でした。
そこで東北大学の金属工学科の図書室でアメリカの学会誌を調べました。そうしてオハイオ州立大学のセント・ピエール教授へ手紙を書きました。毎月の生活費を支給して下さいと書きました。すぐ好意的な返事をくれて毎月150ドル支給すると言うのです。
こうしてオハイオ州立大学へ1960年に留学したのです。しかし150ドルでは最低の貧乏暮らしです。若い時の貧乏は買ってでもしろと言いますが、それにしても苦しい生活でした。
セント・ピエール教授の写真を示します。
この写真の右の人がセント・ピエール教授で真ん中がスパイサー教授です。
この2人の講義も聞きました。幸いオハイオの大学院の成績が良かったので2年後にPh・Dをもらいました。
この2人の講義も聞きました。幸いオハイオの大学院の成績が良かったので2年後にPh・Dをもらいました。
さてオハイオで初めはルーミング・ハウスという家に下宿しました。このルーミング・ハウスには6部屋があり6人の学生が住んでいました。部屋は別々でしたが台所は共通でした。それぞれがスーパーから食料品を買ってきて好きな料理を作って食べるのです。同宿のアメリカ人はフライパン一つで肉を焼いて、野菜を炒めてパンの食事です。それとビタミンのためにオレンジ1個を食べます。昼ご飯は自分で作ったサンドイッチとコカ・コーラを大学へ持参します。私も真似してそんな食生活を続けていました。
留学前の日本では食糧難でしたがアメリカの食生活は感動的でした。
しかし月150ドルでは食べるのがやっとです。余裕の無いギリギリの生活でした。
その貧乏暮らしのおかげで、その後貧乏が怖くなくなったのです。まさしく、「若い時の貧乏は買ってでもしろ」でした。
セント・ピエール教授には公私ともに大変お世話になりました。私どもを訪問するために日本にも来ました。正しく恩師です。
今日は徒手空拳でアメリカへ留学したいきさつを書きました。お金が1銭も無くてもアメリカへ留学出来たのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)