後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「私の人生のいろいろ(2)徒手空拳でアメリカへ留学した冒険」

2024年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦後の日本の生活はみじめなものでした。食べ物も無く庭のハコベを茹でて食べた経験もあります。その一方、戦勝国のアメリカの生活は豊かそうでした。テレビや雑誌で見ると特に食べ物は贅沢でした。日本人の憧れでした。そんな時代はアメリカ留学が多くの日本人の夢でした。
昭和33年に東北大学を卒業した私はアメリカ留学を決心しました。お金も無いので徒手空拳で アメリカへ行く決心をしたのです。あるのは青雲の志だけです。さてアメリカへの渡航費を捻出しなければなりません。
いろいろ調べたらアメリカ政府がフルブライト奨学金 から支援してくれることが分かりました。ただしそれに一つの条件があったのです。
留学生を受け入れるアメリカの大学側が留学生の生活費を支給するという条件でした。
そこで東北大学の金属工学科の図書室でアメリカの学会誌を調べました。そうしてオハイオ州立大学のセント・ピエール教授へ手紙を書きました。毎月の生活費を支給して下さいと書きました。すぐ好意的な返事をくれて毎月150ドル支給すると言うのです。
こうしてオハイオ州立大学へ1960年に留学したのです。しかし150ドルでは最低の貧乏暮らしです。若い時の貧乏は買ってでもしろと言いますが、それにしても苦しい生活でした。
セント・ピエール教授の写真を示します。

この写真の右の人がセント・ピエール教授で真ん中がスパイサー教授です。
この2人の講義も聞きました。幸いオハイオの大学院の成績が良かったので2年後にPh・Dをもらいました。
さてオハイオで初めはルーミング・ハウスという家に下宿しました。このルーミング・ハウスには6部屋があり6人の学生が住んでいました。部屋は別々でしたが台所は共通でした。それぞれがスーパーから食料品を買ってきて好きな料理を作って食べるのです。同宿のアメリカ人はフライパン一つで肉を焼いて、野菜を炒めてパンの食事です。それとビタミンのためにオレンジ1個を食べます。昼ご飯は自分で作ったサンドイッチとコカ・コーラを大学へ持参します。私も真似してそんな食生活を続けていました。
留学前の日本では食糧難でしたがアメリカの食生活は感動的でした。
しかし月150ドルでは食べるのがやっとです。余裕の無いギリギリの生活でした。
その貧乏暮らしのおかげで、その後貧乏が怖くなくなったのです。まさしく、「若い時の貧乏は買ってでもしろ」でした。
セント・ピエール教授には公私ともに大変お世話になりました。私どもを訪問するために日本にも来ました。正しく恩師です。

今日は徒手空拳でアメリカへ留学したいきさつを書きました。お金が1銭も無くてもアメリカへ留学出来たのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「花も実もある猫額庭」

2024年02月12日 | 写真
寒さの中で咲く紅梅・白梅・山椿。柚子と枝垂れ夏蜜柑の写真です。
1番目の写真は紅梅と夏蜜柑です。
2番目の写真は枝垂れ夏蜜柑です。
3番目の写真は白梅です。
4番目の写真は椿です。
5番目の写真は柚子です。

「私の人生のいろいろ(1)新制中学校での冒険」

2024年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム
我が人生を振り返ってみるとかなりドラマチックだったと思います。敗戦後の復興期だったので世の中が激しく変わりつつありました。それが私の人生に影響したのです。
アメリカの占領軍は日本の古い学校制度を根底から変えて新制中学校を創設しました。私は昭和23年に新設の仙台市立愛宕中学校の二期生として入学しました。新設だったので先生方もみな情熱にあふれていました。特に3年間担任だった高橋貞明先生はとても熱心でした。いろいろな部活を指導していました。
私は登山部と科学部に入り高橋貞明先生と親しくなりました。そしていろいろな小さな冒険をしました。
ここで愛宕中学校関連の写真を示しましょう。
1番目の写真は現在の仙台市立愛宕中学校です。私が通っていた当時は粗末な木造の校舎でした。
2番目の写真は愛宕中学校から見える仙台の街です。学校は遠藤山に建っていたので見晴らしが良かったのです。
3番目の写真は愛宕中学校の北にある愛宕山です。愛宕山の向こうに仙台の街が広がっていました。

4番目の写真は愛宕中学校の南側にある大年寺山です。大年寺には伊達家の代々の墓がありました。

愛宕中学校では友人も出来ました。村木君や大川君や佐藤君や堀君や岡君です。村木良彦君はTBSテレビのデレクターとして活躍し、「遠くに行きたい」など良心的な番組を作りました。
愛宕中学校での小さな冒険はいろいろありましたが、忘れられないのは泉岳に登った時の苦しい登山です。高橋貞明先生に引率されて登山部の10人位が隊列を組んで登りはじめました。しかし山の中腹で高橋先生が、「自由に頂上まで登って、その後は麓のバス停に集合しなさい」と言ったのです。頂上まで何とか登りましたが下りは一人だけになってしまいました。足の弱い私は遅れて一人ぼっちになってしまったのです。炎天下の道です。喉がカラカラです。道の両側には澄んだ水を湛えている田んぼが広がっています。私は田んぼの水をを両手ですくってゴクンゴクンと飲みました。温かい甘い水でした。苦しさが消えました。トボトボ下って行き、ようやく麓のバス停に着いて先生や友達の顔を見た時の安堵感は88歳になった今も鮮やかに甦ります。
忘れられない体験でした。登山部に入ったことで後に穂高や槍や鳳凰三山に登ることにつながりました。

愛宕中学校での冒険はいろいろありますが長くなるので止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)