嘉永6年、1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー艦隊4隻が浦賀、久里浜へ姿を現した。
蒸気外輪巡洋艦、サスケハナとミシシッピーの2艦と、帆船、サラトガとプリマスの合計4艦で、計100門の大砲で武装している。
ペリー提督は2つの外交戦略を使った。自分が合衆国大統領の正使であることを強調するため、江戸の将軍の代理と判断できる幕府代表以外には絶対に会わないと宣言した。幕府はしぶしぶながら大統領からの開国を要求する親書を受け取る。ペリー提督は鷹揚にも1年間の検討期間を与えると言い、久里浜を去る。
もう一つの外交的戦略は、所謂、「砲艦外交」である。4艦で合計100門の大砲を東京湾の中で発砲する。独立記念日の祝砲とか、儀礼的な発砲であると称して。全て空砲ではあったが、数十発を夜も打ったという。その恐ろしい、大きな爆発音で江戸中が大混乱になった。「ジョウキセンたった4はいで夜も眠れず、、」という「ざれ歌」の背景には江戸沖で連打される大砲の音が重要な役をしていたという。「蒸気船4はいの大砲の音の恐ろしさで夜も眠られず、、、」と読み下してみると納得する。
尚、来航した4艦は2000トン以上の排水量で千石船の100トン前後と比較すると20倍以上の大きさであることも江戸の人々へ恐怖心を起こさせた一因でもあった。
1853年のペリー艦隊によって、日本が初めて「砲艦外交」の洗礼を受けたのである。(後年日本はその外交手法を中国へ対して使うようになるが)
下の写真5枚は、ペリー提督が一回目の来航で初めて上陸した、久里浜の海岸にある記念碑や記念館の様子を写したものである。(撮影日時:6月14日午後1時頃)
1年間の猶予を与えると言いながら、将軍、家慶が病死すると、ペリー艦隊は帰国途中の香港から突然引き返して来た。江戸到着は、離日後わずか6ケ月の1854年1月である。
13代将軍に家定が就いたが、病弱で国政を担える状態ではない。老中達が浮き足立つ。この混乱状態をペリーは巧みに突いて、交渉を強行する。その結果、横浜で日米和親条約と、それにもとづいて開港した下田で細目をつめ「下田条約」を作った。
これら2回の来航と交渉の経緯、そして砲艦外交の併用をみるとペリーの外交手腕は卓越したものと言わざるを得ない。ペリー提督の外交戦略の完全勝利である。
日米和親条約と下田条約に従って、タウゼント・ハリスが初代の駐日米総領事として下田の玉泉寺へ着任する。安政3年、1856年のことである。
ここでいきなり話が飛ぶ。
太平洋戦争の降伏式は1945年9月、戦艦ミズリー号の甲板上で挙行された。そのとき掲揚された軍艦旗は90年前にペリー提督が使用した軍艦旗である。
アメリカ海軍は日本の敗戦こそ第二の開国にあたると思ったに違いない。
戦後すぐ貧しい映画館でみたニュース映画では、外国人による暗殺未遂によって怪我をした足を引きずる重光外務大臣の姿が悲壮に見えた。降伏式を見下ろしてはためいていたのがペリー提督の旗艦だったポーハタン号(2415トン)の軍艦旗であると気がついた日本人は居なかったという。
ペリー提督の外交的成功やハリス総領事の着任後、アメリカでは南北戦争が勃発し、アジアへの影響力が消えて行く。それに代わって英国がシンガポールや香港を植民地にして支配的な地位を築く。日本では、英国の支援を受けた薩摩、長州などが中心勢力になって江戸幕府が倒され明治政府が生まれる。
明治政府が始めから英国との結びつきが強いのは、薩摩英国戦争や長州英国戦争で敗北した結果でもある。この歴史的展開はやがてドイツとの枢軸同盟によって暗転し、第二次大戦における日本の敗戦へ続いて行く。
1853年のペリー艦隊が浦賀、久里浜へ上陸してから我が国の近代史が始った。そんなことを思いながら、母子が戯れる久里浜の砂浜を見やる。海の向こうには房総半島が横たわっている。思えば日本も数々の戦争をした。しかし戦後79年、日本は戦争をしていない。この国に生まれた幸を感謝する。久里浜のペリー記念公園を独り散策しながら先の大戦で亡くなった人々の冥福をゆっくりと祈りながら。(終わり)