太平洋戦争、第二次世界大戦は日本民族の歴史において空前絶後の大事件でした。
以下の一覧表のように日本人が310万人も死に、中国人は1000万人、アメリカ人も40万人も死んだのです。
朝鮮人は軍人が22万人、一般人が2万人死亡しました。台湾人は軍人が18万人、一般人が3万人死亡しました。
中国1000万人
インド350万人
ベトナム200万人
インドネシア400万人
フィリピン111万1938人
ビルマ5万人
アメリカ人40万5399人
オーストラリア2万3365人
しかし従軍看護婦の犠牲者数は忘れられています。
今日は従軍看護婦の戦地での悲惨な体験と多数の戦没の一端をご紹介しようと思います。
まず日本の従軍看護婦従はどれだけいたか?その数からご報告します。
満州事変・日中戦争・太平洋戦争において出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(一班は婦長1名、看護婦10名が標準)、延べにして35,000名(そのうち婦長は2,000名)でした。このうち1,120名が戦没したのです。
太平洋戦争終了時に陸軍看護婦として軍籍にあった者は20,500名、そのうち外地勤務は6,000名もいたのです。
応召中の日赤看護婦は15,368名でした。海軍においても病院船などで従軍看護婦が活動していたが、そのデータは無いのです。 海軍にも数千人がいたのです。
さて従軍看護婦の仕事ぶりを見てみましょう。
・・・当時の軍隊においては、前線で傷病兵が発生した場合、まず隊付の包帯所で応急処置が行われ、必要に応じて前線の野戦病院から中間施設である兵站病院、最後方の陸軍病院に送られた。傷病兵はなるべく前線の野戦病院で回復させ、原隊復帰させるが、それが難しい場合には兵站病院、さらに特殊な治療が必要な場合は陸軍病院に送られるシステムになっていた。
看護婦には、日赤の看護婦、陸海軍の看護婦、そして軍隊に属さず、個人や集団で救護に参加した看護婦もいた。看護婦は女性であるため、特別に認められた場合を除いては前線では勤務しないことになっていた。日赤の看護婦は原則として兵站病院までの衛生施設で勤務すること、陸海軍の看護婦は後方の陸海軍病院で勤務することが定められていた。それより前線に設けられる野戦病院は軍の衛生部隊が担当した。・・・以下省略します。
詳しくは、「戦争で動員された看護婦」、https://jnapcdc.com/LA/kawahara/ をご覧ください。
ここで従軍看護婦の写真をご覧下さい。
戦況が悪化した戦地の様子は悲惨でした。そんな状況でも従軍看護婦たちは献身的に働いたのです。そんな姿を見た傷病兵はどんなに勇気づけられてでしょう。
ここで少し従軍看護婦の長谷部鷹子さんの手記をご紹介いたします。
「戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 2」
https://www.jiji.com/jc/v4?id=1308jrc0001
1921(大正10)年、岐阜県の職業軍人の家に生まれました。父は近衛兵でした。「女でも手に職を付けておくことは大事だ。緊急のとき、夫に代わって家計を支えることができる。何もできないのはいかん」と、尋常高等小学校のときに言われました。
女学校を出て、37(昭和12)年7月7日に盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まり、いとこから「役場で赤十字の看護婦さんの募集をしているよ」と言われ、試験を受けたわけです。100人くらい来ていましたが、幸い合格しました。入学はその年の12月4日でした。
3年間勉強して、それからすぐ召集。内地の岐阜陸軍病院に半年間、4月までおりました。それから、2回目の召集で北支へ行きました。山西省、北京の西にあった臨汾陸軍病院に2年間勤務。昭和18年5月18日に帰国しました。
北支は、黄砂が1週間くらい発生して前が見えないくらい。そういう中での勤務でした。急性伝染病棟の方でした。赤痢や腸チフス、パラチフス、発疹チフスなどの病気です。
伝染病棟は200床くらいあったでしょうか。患者はレンガの上にわら布団。リンゲルを足にぶら下げ、水分補給の注射ですが、足がこんなにはれて。アメーバ赤痢というしつこい病気で、亡くなる人も多かったです。
重症の人は私たちが食べさせました。つらいと思ったことはなかった。どんなことがあっても乗り越えなければならないと思いましたよ。
有名な五台山の作戦があり、凍傷患者がたくさん出ました。兵隊さんは靴下や手袋に唐辛子を入れて、寒さを軽減していました。だけど、指が腐っちゃって。急に温めたらだめなんです。だんだん慣らしていかないと。内科に勤務替えになったとき、そういう患者を看護しました。
帰国後、役場から保健婦の勉強をしてほしいと話が来て、1カ月の講習後に試験がありました。3回目の召集は、ちょうどその発表の日です。行き先はただ、南方とだけ。着いたところがビルマ(現ミャンマー)です。・・・
以下省略します。
今日は戦争の悲劇を忘れないために従軍看護婦の悲惨な献身と多数の戦没をご紹介致しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)