後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「客船、さるびあ丸のご紹介と八丈島への航海」

2025年01月06日 | 旅行記

客船、さるびあ丸は排水量約5000トン、1000馬力エンジン2基の貨客船です。船の旅が好きで時々いろいろな客船に乗りました。いつも特等室に乗ります。船だけは貯金してでも絶対に良い部屋に乗ることが重要です。窓の無い船倉の部屋には乗らないようにします。そこで今日も皆様を特等船室へご案内いたします。

竹芝桟橋から夜10時20分に出航して八丈島まで約11時間です。

下の大きな写真の最上階前部にある操舵室の真下の手前に暗いデッキの窓が2つ見えます。右のデッキは特等A室2人部屋の外側についたプライベートデッキです。その左の少し大きいデッキは特等4人部屋のプライベートデッキです。

このさるびあ丸には右舷に2つ、左舷に2つ、合計4つのプライベートデッキ付きの特等客室があります。0091番目の写真は客船、さるびあ丸の前半分で、2009年の1月28日に自分が撮った写真です。

2番目の写真はさるびあ丸の後ろ半分です。

3番目の写真は受付カウンターの様子です。

4番目の写真は2009年に我々が泊まっ部屋です。

5番目の写真はシャワー室です。奥に水洗トイレとシャワー室があります。

さるびあ丸は豪華客船では有りません。特等船室といっても質素に出来ています。しかし部屋を海側へ出ると個人用のデッキがあるという設計には夢があります。このデッキを見て、船旅が途端に楽しくなります。

この客船に乗って八丈島に私は2009年の1月28日から4日間訪問しました。そして八丈島のいろいろな所を巡ったのです。八丈島は意外に大きくてそれぞれの集落には独特の風習が残っているのです。興味深い島なのです。
毎年、八丈島フリージア祭りについて書いています。書く度に暖かい島の風物を思い出し、とても懐かしいのです。

以上、客船、さるびあ丸をご紹介し、八丈島への旅について書きました。

「客船の救命ボートの構造と扱いかたを憶える」

2025年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
数年前のイタリア豪華客船の座礁、横転事故で、約4200人もの乗客と乗員が救命ボートで助け出されました。幸いにも港が近かった上、完全に横転するまでにかなり時間があり救命ボートにほぼ全員が乗り移れたのです。しかし11人の死者と21人の行方不明者が出てしまいました。
「救命ボート」を検索すると大小さまざまな種類のボートが写真付きで紹介してあります。そこで大型客船の両側の舷側に吊り下げてある救命ボートの写真を下に示します。
Dpp_4046251 
上は日本の豪華客船、「飛鳥」の写真です。そして下は北欧の豪華客船の写真です。
Brosen_lifeboats_scandinavia 
救命ボートの操作は船員がします。しかしその船員が操作方法を知らない場合もあります。今回もあるボートではそんな事態があり、乗客が操作したという報告もありました。
乗客は自分の部屋番号によって乗る救命ボートが決まっています。避難訓練が必ずあり、部屋の救命胴衣を身につけて自分の乗るボートまで迅速に駆けつける訓練をします。そうすると担当の船員が、ボートへの乗り方や海面への降ろし方を説明します。上の写真のように完全密閉式の覆いがついていて乗船口が小さいのです。はたして混乱状態で無事乗り込めるのかが心配になります。乗り込んだ後は船員が船の上から遠隔操作でクレーンのワイヤを伸ばして海面におろします。エンジンを始動させてからフックを外します。その後は急いで本船から離れます。
救命ボートには食料、水、蒸留機、通信機、発煙信号機、GPSなどが積んであり、1週間位の漂流には耐えられます。
上の写真の救命ボートの定員は40名から50名のように見えますが、すし詰めにすると100人近く乗れるそうです。
今回の座礁事故は港が近かったので救命ボートが船と何度か往復して乗客を救ったと報道されています。それが幸運でした。
尚、今回の事故では船が傾いたために、左舷の救命ボートが海へ降ろせず、使うことが出来ませんでした。しかし豪華客船の救命ボートはそのような事態に備えて片方の舷側に吊り下げた救命ボートだけで乗客・乗員の総数を収容出来るようになっているのです。それが国際的な原則です。
荒れる海の上で、傾いた暗い船上で救命ボートに定員通り乗せることは至難のことです。定員まで乗船する前に見切り発車してしまうのは仕方のないことです。
そんな事をいろいろ想像してみると今回の船員による救命ボートの操作は見事だったと思います。一部の船員が操作方法を知らなかったとしても総括的にはよく働いたと感心しています。
しかし30人以上の犠牲者が出たことは残念です。
犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。(終り)

「日本の豪華客船の飛鳥などの写真」

2025年01月06日 | 写真
日本の豪華客船の飛鳥などの写真をお送り致します。

1番目の写真は日本の豪華客船の飛鳥II,50146トンです。

2番目の写真はアメリカのサン・プリンセス号、77000トンです。

3番目の写真は世界最大の豪華客船の、オアシス オブ ザ シーズ号、225,282トンの外観です。

4番目の写真はオアシス オブ ザ シーズ号内部の様子です。

数年前に横浜の大桟橋の左右に日本の飛鳥IIとアメリカのサン・プリンセス号が並んで停泊していました。見るとアメリカの船のほうが随分と大きいのです。
戦前生まれの私はすぐにサン・プリンセス号は7万トン余の戦艦武蔵や大和よりも大きいのではないかと考えてしまったのです。
帰宅後、いろいろ調べてみました。そうしたらアメリカのオアシス オブ ザ シーズ号は22万トン以上の船なのです。
ついでに海外の国々の豪華客船の数とその大きさを調べてみました。
落胆してしまいた。日本は4隻だけですが、ドイツ16隻以上、イタリア13隻以上、スペインですら5隻以上で、船の大きさは7万トン、9万トンと大きいのです。
もっとすごいのはアメリカで数百隻はありそうです。数だけではありません。アメリカの船には15万トンから20万トンの船がザラにあるのです。
これには正直、度肝を抜かれました。
そこで深く考え始めました。
「どの民族がどのような事にお金を使って人生を楽しむかは、その民族の文化の特徴なのです」というごく当たり前の結論に到達しました。
欧米人は豪華客船にお金を使い人生を楽しむ民族なのです。日本人、そしてアジア人の民族の文化には豪華客船という文化がなじまないのです。はっきり言えば嫌いな趣味なのです。
日本の国土交通省の調べでは、日本のクルーズ元年という「ふじ丸」の就航した1989年の豪華客船乗船者数は15万人余、それから少し増えたり減ったりしましたがほぼ横ばいで、2011年には18万余人でほとんど一定です。
これを世界の最近の年間乗船者数の約2000万人に比較する非常に少ない感じがします。
従って欧米では豪華客船はビジネスとして大きな成長分野なのです。
これは欧米と日本、そしてアジアとの文化の根源的な相違が原因になっています。
話は飛びますが、私は50歳の時から25年間、クルーザーヨットの趣味を楽しんでいました。
ところが日本全体のクルーザー・ヨットの総数は過去30年間、3000艇を越えることはありませんでした。その数はほぼ横ばいです。このヨットの趣味は日本では絶滅危惧種の趣味なのです。
その25年間、何故日本ではヨットの趣味が広がらないかいろいろ考えてみました。
それは豪華客船の趣味と同じような文化の根源的な相違が原因になっているのです。
その原因は幾つかあり、長くなるので割愛いたします。
最後にルース・ベネデクトの言葉を強調しておきます。「どんな民族文化にも絶対に優劣は無い」。しかし相違は厳然としてあるのです。

それはそれとして
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「太平洋航路の花形だった氷川丸の輝きと残照」

2025年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム

戦前の日本では洋行が憧れでした。南米や北米に渡り成功して故郷に錦を飾人もいました。飛行機が普及していなかったので船で海を渡って行来したのです。そんな時代に氷川丸は太平洋航路の花形として輝いていました。洋行しない人でも氷川丸に憧れていました。

氷川丸は日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた12,000t級の貨客船です。 1961年から横浜の山下公園に係留され一般公開されています。
私は2013年のある日、横浜に行って、氷川丸の船内を見て回りました。
今日はまずその時私が撮った写真を示します。
1番目の写真は横浜に係留されている氷川丸を船尾から撮った写真です。2013年に撮りました。
2番目の写真は氷川丸の舷側です。舷側から船に登り船内を見学しました。
3番目の写真は操舵室から見下ろした船首部分です。
4番目の写真は一等客の食堂です。
5番目の写真はアールヌーボーの雰囲気の1等客室です。客室が好評で戦前にチャップリンはじめ有名人が数多くこの船を利用したそうです

6番目の写真は一等客の個室です。2等は6人部屋、3等は大部屋です。


7番目の写真は船内の見学が終わって甲板から見上げた救命ボートです。


さて写真で示した氷川丸は1930年に横浜ドックで建造され、それ以来19

61年まで31年間、シアトル、サンフランシスコ、ハワイなどと横浜の間を

往復する豪華客船として華やかな航海を続けたのです。当時の日本の花形客船

だったのです。

しかし1961年からは山下公園に係留されたままで、再び太平洋へ乗り出す

ことはありませんでした。

私は全長163メートル、11622トンの大きな客船の中をくまなく歩き

昭和という時代のあれこれを懐かしく思い出しました。

日本が貧しかったころに精一杯頑張って作り上げた客船という感慨に打たれ

ます。

余談ながら私が留学したオハイオで親しくなった小林 實さんはこの氷川丸に乗って渡米しました。そこで小林さんに頼んでその時の思い出の記を寄稿して頂きました。茫々60年前のことです。

===小林 實さんの乗船記===============

私が始めてアメリカへ行ったのは昭和34年、1959年のことですが、このことを書く際にどうしても素通りできないひとつの想い出があります。それは、現在横浜港に赤錆で船体が無残な姿でつながれている「氷川丸」のことなのです。今の大型客船に見慣れている方にとって、あのわずかに1万トンを超えたかぐらいの貨客船が太平洋を横断していたことは想像ができにくいかもわかりません。船体の安定装置のスタビライザーにしても、ハイテクのなかった当時のことですから、アリューシャン沖あたりで結構派手に揺れた記憶があります。 ・・・以下省略します。

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上記のように氷川丸は日本郵船のフラッグシップとして横浜-シアトル間の定期航路の客船として活躍しました。横浜シアトル間は13日かかります。
氷川丸は戦時中、真っ白な船体に塗り替えられ、病院船として働いたこともあります。幸い、戦争で沈没を免れた数少ない貴重な船です。

当時まだ渡航制限が厳しく自費留学は極めて少なくそれもアメリカに身元保証人が居り、生活の保障がドルでできなければならなかった時代です。1ドル360円、しかも日本には外貨であるドルが少なく、持ち出しは一人50ドルまででしたから、それこそ闇で500円もしたものを補充しなくてはなりませんでした。


氷川丸は戦前より唯一現存する日本の貨客船であり船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産です。2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定。2007年(平成19年)に経済産業省の近代化産業遺産として認定。さらに2016年(平成28年)8月には国の重要文化財(歴史資料)に指定されました。 

今日は昭和時代に太平洋航路の花形だった氷川丸をご紹介いたしました。
この国の重要文化財は横浜の山下公園に係留され一般公開されています。是非一度ご覧下さい。
     
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「南米移民に行っ友人の思い出とアルゼンチナ丸と氷川丸」

2025年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の中学、高校時代に水元君という友人がいました。伊達政宗の霊廟のある山の下のお霊屋下という名前の町に住んでいました。父は戦死して母と二人で暮らしていました。
色白の優しい中学生でした。何度も彼の家に遊びに行きましたが母は働いていて会ったことはありません。水元君の傍に居ると平和な気分になるのです。
中学を卒業すると仙台の繁華街にある相沢眼鏡店で働き始めました。私は高校生になりましたが水元君に会う為に相沢眼鏡店へ何度も遊びに行きました。
優しい彼を他の店員も大切にしていたらしく私が遊びに行ってもそれとなく歓迎してくれたのです。
ある時何時ものように店に遊びに行った私に、水元君は母と一緒に南米へ移民することにしたと告げたのです。平静な話しぶりに決心の固さが判りました。彼は悲しそうにもう会えないが元気でねと言います。
翌月、相沢眼鏡店に行ったら水元君の姿はありませんでした。他の店員が南米へ行ってしまったと言います。私の少年の頃の悲しい思い出です。
あれから70年近くたちましたが私は水元君と相沢眼鏡店を忘れません。

そんな思い出があったので私は折に触れて南米移民のことや水元君が乗って行った船のことを調べてきました。
そこで移民船として使われたアルゼンチナ丸と氷川丸をご紹介したいと思います。

1番目の写真はアルゼンチナ丸の1962年の勇姿です。パナマ運河の向こうの南米沖で撮った写真です。水元君の乗って行った船の名前は知りませんが、この船だったかもしれません。

アメリカ留学の時お世話になった黒田さんはアルゼンチナ丸に乗ってアメリカに来たそうです。移民と一緒だったので窓もない船倉の大部屋だったそうです。
写真の出典は、http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1571  です。

2番目の写真は南米への移民を乗せて横浜港を出航する氷川丸です。沢山の見送り人が移民する人に今生の別れをしている光景です。水元君もこうして横浜港を出たのでしょうか。

3番目の写真は現在横浜港に係留し公開されている氷川丸です。
この船も戦後、南米への移民船として使用されました。そして移民と一緒にアメリカへの留学生も運んだのです。この写真は私が撮りました。

私は時々昔の友人の水元君のことを思い出します。何故か思い出すのです。今朝も思い出したのでこんな記事を書いたのです。
皆様は昔の友人たちのことを思い出しますか。きっと時々思い出すでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)