後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教が犯した大罪の謝罪を祈るローマ法王のヨハネ・パウロ2世

2018年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
周りの人々へ時々、「私はキリスト教の信者です」と言います。すると親しい人は、「私は宗教は嫌いです!宗教は戦争の原因になるから嫌いです!」とニベも無く言い放つ人がいます。「そうですか。そうですね。」と答えて話題を変えます。
2009年の11月、読売新聞の「時代の証言者」という連載記事でヨゼフ・ピタウさんの話が二十数回続いていました。
この連載でピタウさんは一般の人々の宗教への疑問に対してとても明快な解答を出ています。
例えば2009年11月17日の「時代の証言者」では、ピタウさんが2つ重要な解答を出しています。

(1)ヨハネ・パウロ2世はキリスト教の全ての宗派を再び融合・統一する努力をした。
例えば聖ピエトロ寺院での祭祀にはイギリス教会(聖公会など)のカンタベリー大主教と東方の正教会のコンスタンティノポリス総主教と一緒に司祭しました。
東方の正教会とはギリシャ正教、そしてロシア正教、日本正教会などを含みます。
2000年前のイエス様が生きていた頃はこれらの別々の宗派は存在しなかったのです。
その状態へ戻し、正しいあり方に復帰しようとする運動をエキュメニズム(教会一致促進運動)と言います。
ヨハネ・パウロ2世は、別々の宗派の存在がキリスト教としてあるべき状態でないという強い信念を持っていたのです。

(2)キリスト教が犯した大罪を認め謝罪し、神に許しの祈りを何度もした。
十字軍のイスラエル奪還の為の遠征と殺戮、それも正教徒も殺戮した大罪。
ガレリオ・ガレリイなどの科学者の裁判。
魔女狩りと種々の異端裁判。
そして数々の宗教戦争。
これらの大罪の謝罪をローマ法王のヨハネ・パウロ2世は神へ祈ったのです。
これは画期的なことです。従来のローマ法王は謝罪の祈りをしなかったと言われていたのです。

日本人の常識から見て明らかな大罪をローマ法王として始めて公式に認めたのです。その上、その大罪の許しを神へ祈ったのです。
特に2000年(キリスト生誕2000年の大聖年)の3月の許しを求める祈りは壮絶だったそうです。体力が衰え倒れそうな体で長時間、ひざまずいて祈ったそうです。

日本人の常識ではヨーロッパの中世にはキリスト教が原因になっている戦争が幾つかありました。
しかし洗礼を受けて信者になってみると違う理解になります。
「人間はどんな理由でも戦争をする。他民族を殺戮する本能を持っているからそうするだけです」、そして「キリスト教が原因ではないのです。ただ戦争の口実にキリスト教の名を利用するだけです」と理解できます。

ですからヨハネ・パウロ2世の神に許しを求めた内容は2つに分けられと自分は考えています。

十戒の一つの殺人を大量にした罪。
その殺人の正当性を主張するために、それを禁じていたイエス・キリストの名前を勝手に使った大罪。

この二つを一緒にして神の許しを祈ったのだと、私個人は理解しています。

ローマ法王のヨハネ・パウロ2世は1881年に日本への巡礼の旅をして日本人へ深くかかわったのです。

1番目の写真は1920年にポーランドで生まれ12歳になった時の写真です。

2番目の写真はローマ法王当時の写真です。(2005年4月2日、84歳で旅立ちました)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)


数日前、富士山で遭難した旧友の思い出

2018年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
老境にいたり達観の境地というものが少し見えてきました。もうどんなことが起きても驚かないようになります。何事も自然の摂理のままに日々が流てゆくのです。
こんな悠然とした気分でいましたら高校時代から親友だったOT君が富士山で行方不明になったという知らせがありました。
9月2日の午前4時半に山行きの服装で出発したそうです。そして富士山8合目の山小屋に記帳しています。
その後、行方不明になったのです。もう10日以上も経過しています。
OT君とは大学の同じ学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。
仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。
その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってあったのです。
彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで一緒によくでヨットにも乗りました。
ある時葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。

1番目の写真は熱海から初島へ行く連絡船から撮った初島です。

2番目の写真は連絡船の後部デッキから熱海方向を見た風景です。熱海の町が白く輝いています。

3番目の写真は40分後に着岸した初島の港です。はるか向こうに熱海の町が小さく見えています。
葉山マリーナからOT君と一緒に行ったときはこの港ではなく島の反対側の入り江の突堤に古い巡視艇を舫ったのです。
それは20年位前のことでしたが元気だったOT君の顔を鮮明に思い出します。
古い巡視艇は船足が遅く葉山から3時間もかかったのです。そのせいで遠方の孤島へはるばる渡ってきたという感じがしました。
島ではOT君と民宿に泊り、宿の主人に船を出して貰いサバを釣りました。夜にそのサバを刺身にして貰い、ビールを飲みましたが、サバは不味かったのが印象に残りました。新鮮過ぎるサバは不味いそうです。
帰りは葉山に直行しないで三崎港に寄りましたが、そこで古い巡視艇のエンジンから煙が上がったので大変な経験をしました。私が舵の舵輪を握っている間にプロの船長が消火器で火を消したのです。船火事の恐ろしさがよく分かりました。
火が出たエンジンはもう使えません。葉山マリーナから高速艇が来てくれて我々を連れ帰ったのです。
その間中、OT君は沈着冷静でした。「船長が火を消したのですぐ傍の三崎港から救いの船が来るよ」と笑っていました。

そして皆の定年後からは3ケ月ごとに大学の金属工学科の30人の同級生が集まって昼食会をして来ました。OT君は律義に毎回出席してました。軽い冗談を言ってみんなを笑わせていました。
今年の夏に東京駅の地下のビアホールでの昼食会でOT君と話したのが最後になりました。
この昼食会もみんなが年老いたからそろそろ止めようと話し合った矢先でした。
OT君の晩年の趣味は古文書を読むことでした。特に鎌倉幕府の歴史書の吾妻鏡は熱心に読んでいました。この本は鎌倉時代研究の非常に重要な史料なのだそうです。
OT君と一緒に一泊した初島へはその前後7回ほど家内と一緒に行きました。
だんだん観光開発され、豪華なホテルや東南アジアの植物を植えた公園も出来て、島の内部はすっかり観光地化しています。
以前は夏ミカンの木が生い茂り、そこここに熟れた実が転がっていました。広い大根畑に沢山の臭い漬物の樽がありましたが、それらはすっかり姿を消してしまいました。
港のそばに民宿や食堂が沢山あり、地魚の美味しい昼食が食べられます。
私にとっては懐かしい思い出の沢山詰まった小さな島です。

それにしても富士山で遭難したOT君はどうしたのでしょうか?
健脚だったOT君は安全な登山道をはずれ冒険の道に踏み込んだのでしょうか?
私はOT君の無事を信じて、祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)


4番目の写真は2月に咲いた初島の菜の花と桜の花の写真です。

5番目の写真も2月に咲いている 菜の花と桜の花の写真です。

6番目の写真は昔、大根畑だった所に芝生が植えてあり、美しい公園になっている風景です。

ドイツ人の真摯な反省として有名な演説、「荒野の40年」

2018年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
「荒野の40年」はキリスト教徒にとっては、これが自分の腕を切って血を流しながらの凄い謝罪文なのです。
それを判るのはキリスト教文化の国々の人とユダヤ教徒です。

日本人には何故これが自分の腕を切って血を流しながらの凄い謝罪文だということが理解出来ないのです。
キリスト教徒が40%もいる韓国人は理解します。そして日本が自分の腕を切って血を流しながらの凄い謝罪文を言わないと非難し、それも慰安婦問題に結びつけているのです。
日本人の謝罪についての表現方法があまりのも日本的で国際的には通用しないのです。韓国人への配慮が足りないのです。
日本人はもっともっと賢くならなければいけません。困った問題です。

リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)でした。
彼は敗戦40周年記念日に西ドイツ連邦議会で以下の演説をしました。それは「40年の荒野」と題し、ドイツ人の反省と謝罪として世界中で有名になりました。その演説は世界各国で出版せれています。勿論、日本でも岩波書店から『ヴァイツゼッカー大統領演説集』として出版されています。
これは西洋人の良心的な告白であり悲しみに満ちた独白です。
いろいろな意味で感動的な演説なのでご紹介いたします。
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html よりの転載です。


『荒れ野の40年』 (1985)    ヴァイツゼッカー
 5月8日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた 600万のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 虐殺されたジィンティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。
 銃殺された人質を思い浮かべます。
 ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンス――これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。
 積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。
 はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております。
 死者への悲嘆、
 傷つき、障害を負った悲嘆、
 非人間的な強制的不妊手術による悲嘆、
 空襲の夜の悲嘆、
 故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧窮に悩まされた悲嘆、 捕われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆――こうした悲嘆の山並みです。
 今日われわれはこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。
 人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう。
彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした。
 暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは1945年 4月30日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。
 歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪――これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。
 この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらには公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見聞きすることができました。
 シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。
 目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
 良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。
 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。
 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。 ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。
 物質面での復興という課題と並んで、精神面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
 かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち(1942年、ナチスの高官を暗殺したことに対する報復としてプラハ近郊のこの村をナチスは完全に破壊した。)――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。
 ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。
 ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。
 しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。
 しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。
 故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。
 この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。
 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。
 五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること――これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。
 これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。
 1945年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とは次の戦いの準備期間であった――こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。
 ヨーロッパの諸民族は自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。
いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。    
戦後四年たった1949年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。
ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります。
戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。
 傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この40年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。
 ――第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
――人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
――独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
――中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
――東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります。
 ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結40年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。
東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。
人間の一生、民族の運命にあって、40年という歳月は大きな役割を果たしております。
当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに40年が必要だったのです。
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。
われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は率直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。
人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
 道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。
 ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
 若い人たちにお願いしたい。
 他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 ロシア人やアメリカ人、
 ユダヤ人やトルコ人、
 オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、
 黒人や白人
これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
 若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
 民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。
 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
今日、1985年の五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。 (終わり)

日本の戦後の自虐史観の正しい部分と間違っている部分

2018年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
自虐史観とは、太平洋戦争後の日本の社会や歴史学界、教育界を風靡した一つの歴史観のことです。
私自身の自虐史観の定義を示します。
この自虐史観は二つの部分から成り立っています。
(1)日本が朝鮮を合併し、中国を侵略し満州国を作ったことは悪かった。日本民族は本質的に悪い性質を持った民族である。
(2)アメリカに比較して日本の工業技術は劣悪過ぎる。それなのに戦争を始めた日本民族は本質的に劣った民族である。
このように日中戦争と太平洋戦争の歴史を理解するのが自虐史観と私は定義します。
日本の歴史の負の部分をことさらに強調する一方で、正の部分を過小評価し本質的に日本民族を貶める歴史観のことです。

さて上に書いた(1)と(2)の部分の何処が正しく、何処が間違っているでしょうか?

(1)の「日本が朝鮮を合併し、中国を侵略し満州国を作ったことは悪かった」は全く正しいと私は現在でも信じています。反論したい方には私は一切沈黙します。
その代わり、ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーの「40年の荒野」という本をお読み下さいと言います。その本は世界中で出版されています。
「40年の荒野」は、ドイツ人の第二次大戦への真摯な反省と謝罪なのす。

さて(1)の「日本民族は本質的に悪い性質を持った民族である」という部分は全く間違っています。世界中のどんな民族も倫理上の優劣は絶対に無いのです。
どんな民族でも状況次第では悪いことも良いこともするのです。

次に(2)ですが、これは長い間、私を苦しめました。
工業技術のレベルを自動車製造技術で比較すると明快に日本が劣っていたことが判ります。

1番目の写真は日本の戦前のダットサンの写真です。マニュアルシフトのギアボックスがついてクラッチを踏んで素早くギアチェンジをしないと動かなかったのです。
戦後、1960年頃に出たトヨペットクラウンやダットサンも全てマニュアルシフトのギアボックスとクラッチがついていたのです。

2番目の写真は1960年に留学したとき町を走っていた車です。
こんなに大きい車なのにオートマチックだったのでクラッチを踏んでギアチェンジをする必要が無いのです。これには心底驚いたものです。

3番目の写真も1960年当時アメリカで走っていた車です。
いかにも重そうな見かけですが乗ってアクセルを軽く踏むと軽々と加速するのです。大きなエンジンがついていると車は羽毛のように軽いのです。
その上、当時日本では見なかったパワーブレーキ、パワーハンドル、パワーウインドーが完備していたのです。
この乗用車製造技術のレベルの高さには長い間私は劣等感を持っていました。

しかし日本の自動車工業のレベルも次第に上がって来ました。
決定的だった事件はホンダがオハイオ州に大きな自動車工場を作ったことです。周りのアメリカ人が皆「ホンダの車の性能が良い!」と絶賛しはじめたのです。
上の(2)の「アメリカに比較して日本の工業技術は劣悪過ぎる」の部分は間違っているのです。
それでは(2)の「それなのに戦争を始めた日本民族は本質的に劣った民族である」という部分はどうでしょうか?
この部分は現在でも、ある程度正しいっと思っています。
世界の経済分野における日本政府の戦略性の無さや、軍事バランスにおいてもアメリカへ頼り切っている様子を見ると日本民族は戦略的にものを考える能力が劣っているようなのです。
第二次大戦で食料の補給の戦略も無いのに戦線を野放図に拡大したことは現在でも考えるべき日本民族の弱点でないでしょうか?

今日の議論を総括します。
(1)日本が朝鮮を合併し、中国を侵略し満州国を作ったことは悪かった。日本民族は本質的に悪い性質を持った民族である。
(2)アメリカに比較して日本の工業技術は劣悪過ぎる。それなのに戦争を始めた日本民族は本質的に劣った民族である。
結論を整理すると、
(1)の前半分は全く正しく、後半は間違っているのです。
(2)の前半は間違っていますが、後半は正しいのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

アメリカは9・11同時多発テロを絶対に忘れない!

2018年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は8月15日の終戦記念慰霊祭を絶対に忘れません。毎年かならず天皇、皇后両陛下がご臨席し、天皇陛下が心のこもった追悼のお言葉を述べるのです。
同じ様にアメリカ人は9・11同時多発テロを絶対に忘れません。毎年9月11日に大統領が出席して追悼式が挙行されるのです。ですからアメリカ人は9・11同時多発テロを絶対に忘れないのです。同じような忘れない日は1941年12月8日の真珠湾攻撃の日です。どちらも奇襲攻撃だったのです。
さて同時多発テロの事件現場はニューヨークの貿易センタービルとワシントンの傍にある国防省のペンタゴン・ビルとペンシルバニア州のシャンクスビルです。
ここで2001年の9月11日に起きた同時多発テロ事件を振り返ってみましょう。

1番目の写真は貿易センタービルへ2機目の大型旅客機が今まさに突っ込もうとしている場面です。
ワールドトレードセンター(WTC)へのテロ攻撃による死者は合計で2763人でした。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人です。ハイジャックされた旅客機はアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便でした。
この他に、ワシントンの傍にある国防総省本庁舎(ペンタゴン)に突入した現場ではアメリカン航空77便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡し、106人が重傷を負ったのです。
そしてユナイテッド航空93便はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィルに墜落し、乗客37名(日本人1名を含む)(乗客37名中4人はテロリスト)・乗員7名の全員が死亡しました。

2番目の写真はこの事件が起きて10年目の2011年に犯人、オサマ・ビンラディンが暗殺されたニュースを見つめておるオバマ大統領と政府の高官たちです。オサマ・ビンラディンはパキスタンの邸宅で寝ているところをアメリカ軍の特殊部隊によって射殺されたのです。

3番目の写真はピッツバーグ郊外シャンクスヴィルの墜落現場にたてられた慰霊碑です。

4番目の写真は今回のシャンクスヴィルの墜落現場での慰霊祭で涙をにぐう軍人の姿です。

5番目の写真は今回の慰霊祭で膝まづいて死者の冥福を祈るアメリカ兵の写真です。

この9・11同時多発テロの起きた原因は何でしょうか?
原因を分析した資料は沢山ありますが、これと言って明確な一つの原因があるわけではありません。
戦後、アメリカが常にイスラエル側に立ち4回もの中東戦争でイスラエルを支援したことや湾岸戦争なども原因だと指摘されています。要するにアメリカは常にイスラム教の国々の敵だったのです。
この9・11同時多発テロの後、アメリカはアフガニスタンを占領しイラク戦争があったのです。それに対抗するように「イスラム国」の興亡があったのです。そして現在のシリア内戦が続くのです。
ですから9・11同時多発テロは世界の歴史の屈曲点だったのです。

下に「9/11から17年、トランプ米大統領が墜落跡地で演説」というBBCのニュースの抜粋をお送りします。
2018年09月12日のニュースですが日本のマスコミには殆ど出なかったニュースです。
・・・ドナルド・トランプ米大統領とファーストレディーのメラニア夫人は11日、17年前に起きた同時多発テロの追悼式典に出席するため、ペンシルバニア州の墜落現場に新しく造られた追悼施設を訪れた。
トランプ氏は、「アメリカの未来は敵がつむぐものではない。アメリカの未来はこの国の英雄たちがつむぐ」と、ハイジャック犯たちと戦って犠牲になった乗客たちをしのんだ。
米同時多発テロは米国本土に対する外国からの攻撃として過去最大で、2996人が亡くなった。
シャンクスビルでの演説は、新たに建設された高さ28メートルの「Tower of Voices(人々の声の塔)」の足元で行われた。この場所に墜落して犠牲となった乗員乗客40人にちなみ、40個の風鈴が塔に設置されている。
演説でトランプ氏は、「この土地は今、米国の抵抗の記念碑になった。(中略)米国は決して暴虐に屈しない」と述べた。
「この記念塔が建っている限り、この記念碑が残る限り、勇敢な愛国者はアメリカの危機に際して立ち上がり、そしてまた反撃するだろう」
トランプ大統領は乗客たちの「素晴らしい勇気」を称え、その抵抗は「米国が反撃した瞬間だ」と述べた。
「勇敢な愛国者の一団がこの国の敵に立ち向かい、アメリカが誇る不滅の英雄たちの一員となった」
シャンクスビルの墜落跡地を訪れた現職の大統領は、トランプ氏で3人目となる。
・・・
ニューヨークの追悼式典にはアンドリュー・クオモ・ニューヨーク州知事、ニッキー・ヘイリー国連米国大使、ビル・デブラシオ・ニューヨーク市長が参加したほか、マイケル・ブルームバーグ前市長やルディ・ジュリアーニ元市長の姿も見られた。
遺族が犠牲者の名前を読み上げ、民間機が世界貿易センターの北棟と南棟に激突した午前8時46分と午前9時3分に、それぞれ黙とうが捧げられた。
テロ攻撃後にはマンハッタン島南部、特に早い段階で救助・捜索作業にあたり有毒がれきを掘り進んだ救急当局者の間で、がんの発症が増加した。
9/11犠牲者補償基金は、この事件を生き延びた人たちの医療費としてこれまでに40億ドル(約4500億円)を提供している。
世界貿易センター健康事業によると、生存者のうち1万人近くが何らかのがんを発症している。さらに、攻撃後に現場の煙を吸い込んだ数万人の間で、腫瘍が発見されて医療給付を申請する患者の数が近年増えているという。・・・

9・11同時多発テロの後遺症は現在のアメリカで問題が続いているのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



ノーベル賞の大村博士が山里に作った小さな美術館

2018年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
大村智博士は2015年の秋にノーベル化学賞を受賞しました。その大村さんは昔から美術が好きで2006年には山梨県韮崎市の山里に小さな美術館を作りました。鈴木信太郎が好きで多数の油彩画を常設展示しています。そして2007年にはこの美術館を韮崎市に寄贈します。
それ以来、この美術館は時々、特色のある企画展を開催してきました。
2015年の初頭に企画展の森田元子絵画展があったので見に行ったのです。それは大村さんがノーベル賞を貰う10ケ月前のことでした。

今日は韮崎大村美術館をご紹介します。楽しい小さな美術館です。
そして森田元子さんの絵画と鈴木信太郎さんの絵画もご紹介しようと思います。

さて日本には実業家が作った美術館は沢山ありますが、学者が特許料で作った美術館は珍しいのではないでしょうか?
大村さんは、韮崎の農家に生まれ、山梨大学を卒業した生粋の甲州育ちの方です。
山梨大学には昔、私の友人もいて何度も訪問した大学でした。その山梨大学からノーベル賞受賞者が出たのですから素晴らしいことです。地元の韮崎市の方々や山梨大学の方々の喜びが目に見えるようです。
それはさておき私どもは韮崎市の隣の北杜市に山の小屋を45年間持っていて韮崎には何度も行きました。カトリック韮崎教会のミサにあずかったこともあります。

3015年の1月9日に森田元子絵画展を見に行った時、薬学者の大村さんが美術に深い造詣があることを知り、その幅広い才能に驚嘆したものでした。2階には鈴木信太郎の絵画も数多くあります。穏やかな具象のものばかりです。この森田元子さんと鈴木信太郎さんの絵画は家内が大好きなのでとてもうれしそうに観ていました。
韮崎大村美術館について説明をいたします。

1番目の写真は八ヶ岳や甲斐駒岳や鳳凰三山の見渡せる眺望の良い場所に建っている美術館です。
大村さんは30代の頃、日本画家の野田九浦(きゅうほ)の掛け軸「芭蕉」に一目ぼれして購入したことをきっかけに美術に傾倒。美術館には自身で集めた絵画や陶芸品など約2000点が収蔵されているそうです。
天然有機化学者でありながら、その一方で大村さんは女子美術大学の理事長も務めています。
美術館の一階は常設展示として上村松園、三岸節子、片岡球子、堀文子ら女流作家の作品が展示されており、季節ごとに企画展が開催されます。二階は鈴木信太郎を中心とした男性作家の作品が常設展示されています。
二階に上がると、また島岡達三や浜田庄司らの陶器が展示されている展望の良い部屋があります。この2階のもう一つの部屋には大村さんが好きな鈴木信太郎の絵画24点や男性画家の作品が展示されています。

2番目の写真は二階の部屋から1月9に撮った八ヶ岳の眺望です。
この部屋からは更に茅ヶ岳、そして富士山のパノラマを望むことができます。
森田元子絵画展では森田元子の優しいタッチの油彩45点が並んでいました。性格の良さを感じさせる素直な絵画です。殆どが婦人像で、赤や緑などの明るい色彩は、見ていて楽しくなります。
45枚の絵画を丁寧に見ていくと、その優しい色彩感覚に魅了されていきます。絵画では色彩も非常に重要なのだとあらためて理解したのです。

3番目の写真がこの展示会のポスターです。

4番目の写真は会場内の写真です。 出典は、http://tcstudio10.exblog.jp/iv/detail/index.asp… です。

5番目の写真は森田元子さんの絵画です。
出典は、http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/…/backnum…/011021-j.htmlです。
1階の2つの展示室は森田元子絵画展でしたが2階に上がると2番目の写真で示したような眺望の良い部屋があり、主に陶器が展示してあります。その奥に大きな部屋があり鈴木信太郎さんの絵画24点が展示されています。
写真で鈴木信太郎さんの絵画5点を示します。

6番目の写真はグリーンの林檎の絵です。緑色の種類の林檎を素直に描いた静物画です。リンゴの色が何とも言えない穏やかな美しさを感じさせます。

7番目の写真は桃3個の絵です。桃3個がそれぞれ自己主張をしていますが、静かな絵画です。

8番目の写真は子供の童話の挿絵のような絵です。彼は油絵以外にも、本の装幀をしたり挿絵なども描きました。

9番目の写真は孔雀2羽と籠の中のオームをメルヘンチックに描いた絵です。

10番目の写真は風景画です。彼は全国各地を訪れ、数多くの風景画を描きました。
風景画は独特なフォルムと豊かな色彩が特徴です。鮮やかな色彩が踊っているようですが絵画ぜんたいから受ける印象は静かです。東洋的な穏かさが漂っているのです。不思議です。

この美術館の隣には大村さんが作った天然掛け流しの湯「白山温泉」もあります。温泉にゆったり浸かり、隣の蕎麦やで昼食を摂ることも出来ます。両方に広い駐車場があります。
富士山や甲斐駒岳や八ヶ岳の見える風景絶佳の場所にあります。兎に角、訪れて絶対楽しいところです。
場所は韮崎大村美術館を検索すると出てきます。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料===================
(1)大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日[1] - )は、日本の有機化学者。北里大学特別栄誉教授。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%99%BA
45年余に亘り独創的な探索系を構築し、微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない450種を超える新規化合物を発見した。

一方、それらに関する基礎から応用にわたる幅広い分野の研究を推進した。遺伝子操作による初めての新規化合物の創製、マクロライドを中心とした一連の生物有機化学的研究と有用化合物の創製、工業的にも重要な抗寄生虫抗生物質イベルメクチン生産菌の遺伝子解析など、いずれも世界に先駆けた研究であり、新しい研究領域を切り開いてきた。

発見した化合物のうち25種が医薬、動物薬、農薬、生命現象を解明するための研究用試薬として世界中で使われており、人類の健康と福祉の向上に寄与している。加えて100を超える化合物が有機合成化学のターゲットとなり、医学、生物学、化学をはじめ生命科学の広い分野の発展に多大な貢献をしている。

その中の抗寄生虫薬イベルメクチンは、熱帯地方の風土病オンコセルカ症(英語版)(河川盲目症)およびリンパ系フィラリア症に極めて優れた効果を示し、中南米・アフリカにおいて毎年約2億人余りの人々に投与され、これら感染症の撲滅に貢献している。さらにイベルメクチンは、世界中で年間3億人以上の人々が感染しながらそれまで治療薬のなかった疥癬症や沖縄地方や東南アジアの風土病である糞線虫症(英語版)の治療薬としても威力を発揮している。
(以下省略)

(2)森田元子 もりた-もとこ
https://kotobank.jp/…/%E6%A3%AE%E7%94%B0%E5%85%83%E5%AD%90より。
1903-1969 昭和時代の洋画家。
明治36年2月11日生まれ。岡田三郎助に師事し,フランスに留学。昭和12年「聴音」,13年「麗日」で新文展に連続特選,35年「女」で日展文部大臣賞。新聞小説の挿絵もおおい。女子美大教授,日展審査員,光風会理事。昭和44年8月12日死去。66歳。東京出身。女子美専(現女子美大)卒。

(3)鈴木信太郎(すずき しんたろう 1895〜1989年)
http://www.yumebi.com/acv11.html
明治28年(1895年)八王子市八日町の生糸商の家に生まれる。
明治43年(1910年)に黒田清輝の主宰する白馬会洋画研究所に入所する。その後東京府立織染学校(現・東京都立八王子工業高校)で織物図案を学び、上京後、染織図案家滝沢邦行のもとで図案を学ぶ。
大正5年(1916年)の第10回文展に水彩画が初入選。のち、図案の仕事は断念し、絵の制作に専念する。
大正11年(1922年)第9回二科展に初入選、以後石井柏亭に師事しながら、大正15年(1926年)の第13回二科展で樗牛賞を受賞する。
戦前は二科会で活躍し会友、会員にまでなるが昭和30年(1955年)に野間仁根らと脱会、一陽会を結成する。
昭和35年(1960年)一陽会や日展などでの活躍により日本芸術院賞を受賞。昭和44年(1969年)には日本芸術院会員となり、昭和62年(1987年)文化功労者に選ばれる。
全国各地を訪れ描いた風景画や静物画など、独特なフォルムと豊かな色彩で多くの油絵作品を制作した。油絵以外にも、本の装幀や挿絵なども手掛けた。
また、昭和25〜36年(1950〜61年)に武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)、昭和28〜41年(1953〜66年)には多摩美術大学で教鞭をとった。
平成元年(1989年)5月13日逝去、享年93歳であった。

白崎謙太郎著、「往年の名画、『カサブランカ』と『秋のソナタ』について」

2018年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
時折この欄へご寄稿下さっている白崎謙太郎さんから、原稿をまた頂きましたので以下にお送りいたします。
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白崎謙太郎著、「往年の名画、『カサブランカ』と『秋のソナタ』について」

高齢者の方々は「カサブランカ」という映画を憶えていると思います。
1943年に作られ、日本では戦後に上映された名画だった。
大甘のラブロマンスで、この映画が好きだというのはちょっと気恥ずかしくもあるのだが、最近アメリカの脚本家組合1万人のアンケートでは、過去のハリウッド映画で一番優れた脚本という結果だったそうだ。
ご存知とは思うが荒筋を書く。
時は75年前、ナチがほぼヨーロッパ全域を制圧し、レジスタンスも弾圧されている頃の話だ。
アメリカなどナチの影響を受けない地域に逃れるために、金に恵まれた人たちは脱出ルートの起点になるフランス領のモロッコのカサブランカに集まる。そこもドイツ軍が一応、占領している。
アメリカ人の名優ハンフリー・ボガード演ずるリックもパリから逃れてきてカサブランカで酒場を営んでいる。
そのアメリカ人のリックの眼前に以前パリで恋仲だったバーグマン扮するイルザが現れる。愛し合った男の店と知らずに来る。
バーグマンと一緒に来た夫は彼女のパリ時代に行方不明になっていたレジスタンスの闘士。
パリでリックとつき合っていたときの彼女は夫はもう死んでしまっているのだと信じていたのだ。

パリを離れる日、土砂降りの駅で来るはずの彼女を待つトレンチコートでずぶ濡れのリック。信頼している黒人のピアノ弾き語りのサムが彼女の別れの手紙を持って駆けつけてくる。そこには行けなくなった、もう会えない、だけどあなたを愛している、とある。手紙は雨に濡れインクが空しく濡れて滲む。あきらめきれないリックをサムが促しナチが迫り来るパリを離れる。

パリ時代の恋人同士、イルザとリックが再会したのがここカサブランカのリックの酒場。リックは未練と自分を裏切ったイルザへの思いが断ち切れずにいる。そうだろうあれから半年、いや1年ほどの月日しかたっていなかったのだ。
酒場に入って来た女は昔のように弾き語りをするサムがいるのに驚く。サムにあの曲を弾いて歌ってよ、と頼むが、サムは忘れたととぼける、女はメロディーを口ずさみ、サムもやむなく弾き語りで「時の過ぎゆくまま」を弾き始める。
パリでイルザとリックが一緒に良く聴いたサムの弾き語りだ。リックには辛すぎる。ここではサムに弾かせないでいた。
聞きつけたリックが店の奥からサムに駆け寄り、その曲はやるなと言ったではないかと怒る。サムは弾き続けながら、視線を彼女の方へ送る。
リックとイルザの目が合う。
この時のシーンは歌舞伎の名場面のように切ない。特に音楽「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」はこのシーンと共に日本人のジャズファンの最も好きなバラードの5指に入る人気になった。
アメリカでジャズピアニストをしている娘の彩子へ今でも多数のリクエストが来る曲だ。

さてリックにしてみれば、パリで突然裏切られ、やっと未練が断ち切れようというときに、夫婦でおめおめと現れるイルザを、二人だけの時激しくなじる。
イルザ夫婦はナチの追っ手を逃れ、アメリカに亡命したかったのだ。その玄関口にあるカサブランカで、まさかリックに会ってしまうとは。
しかもその旅券をリックだけが持っている。女は旅券が欲しい、リックはおめおめとわたす気にはならない。女は拳銃を突きつけたりするが、もとよりリックが憎いわけではない。交渉の過程で激しく愛し合ってしまう。女の気は揺らぎ、高名なレジスタンスの闘志の尊敬する夫を捨ててリックとアメリカにとさえ思うのだ。
リックも迷う。女はリックと行きたい、と思うようになる、しかしリックは自分はあきらめて女と夫を旅立たせる。
イルザと一緒に来た夫はリックを残して飛行機でカサブランカを飛び立つ。中立国のポルトガルを経てアメリカに行くのだ。

この映画で描かれている女と男、女は優柔不断、身勝手、貞操観念を捨て去るのをためらはない。男にとっての女の残酷さ、身勝手さをさらけ出している。こんな女を夫も、リックも信ずることは出来ないではないか、「君の瞳に乾杯」と言わしめるような美しい女であっても、いやそれ故にこそ。
まあ男女の愛とはそういうこと、何もないよりは良い人生だと思うよりしょうがない。
イングリッド・バーグマンはこの映画を嫌いだったようだ。彼女の自伝で、制作中の秘話を空かしている。脚本はクランクインの時できていないで、作りながら脚本が届く始末、しかも脚本家と監督はしょっちゅう意見が対立し、筋もどうすすむのかわからない始末だったのだ。バーグマンはたまりかねて、撮影途中、いったい私はリックを愛するの、それとも夫を愛するのと監督と脚本家に詰め寄ったとのことなのだ。そんなことさえ決まらないで撮影はすすみ。結局あの名高いラストシーンへ至るのである。

そんな支離滅裂な映画だったにもかかわらずこの映画がアメリカ映画史上最高の脚本と言われるのは実は映画芸術が集団製作だという本質がまれに見るくらいうまく機能したからなのだ。
言い換えれば監督と脚本家の激しい対立がなければこんな素晴らしい映画にはならなかったのだ。

土砂降りの雨のパリの駅のシーン、女を待つリックの所には一通の手紙が来る。雨に濡れてインクの滲む文面は別れの手紙。
リックの着るトレンチコートもびしょぬれ。あの極上の名場面。
世界中の男が、トレンチコートを買うときあのシーンのハンフリー・ボガードの姿を想起するのだ。あのシーンは脚本にはなく、監督の独断で入れてしまったとのことだ。しかしあのシーンこそ、名場面だ。なんといってもトレンチコートを世界中の男があこがれるようになっただけでも。・・・

さてここから話が「秋のソナタ」に変わる。
25才の美しかったバーグマンも40年も時を重ねれば65才、女の年輪を重ねなくてはならない。
「秋のソナタ」はバーグマン最後の作品、監督はベルイマンである。
ここでのバーグマンは老い始めた容姿をさらけだし、それ故にこそ、圧倒的な存在感である。
高名なピアニストであるバーグマンは、数年ぶりに仕事がとぎれた数日間を田舎の教会の牧師と一緒になっている娘を訪ねる。
牧師と一緒になった娘夫婦は平穏に過ごしている。
しかしバーグマンにはもう一人下の娘がいるのだ。この娘は青春時代に病魔におそわれ、今では 寝たきりで介護の手を借りなくては寝返りも打てず、言語障害もある。
バーグマンはこの娘のことを忘れていたい。そうしないとステージに上がったときにも演奏に没入できないのだろう。
バーグマンは会いたくないのだが、時々、寝ている次女の所に行って優しく声をかける。しかし忘れていたい。しかし牧師と一緒になっている娘を訪てみると、そこ障害者の次女がいるではないか!
長女にどうしてあの子がいるということを前もって知らせてくれなかったのか。いるのなら来なかったとなじる。
その理不尽さをあらわにするのはやはり母と娘の遠慮の無さだろう。
長女もそれをきっかけにして、幼児の頃から演奏旅行に出て不在がちな母の冷たさを責めるのだ。
演奏旅行で家に居ない母、その母に接したい思いが叶わなかったこと、家にいても練習中だと言ってそばに寄ることさえ冷たく拒否された悲しさ、そして存命中だった父さえ孤独で寂しさに耐えていたこと等を口を極めて母を攻める。
この二人のせめぎ合いというか、ほとんど一方的に長女が母を攻める場面は圧倒的だ。多分始めての母への反抗だったに違いない。
特に少女時代初恋の相手との間に子が出来てしまい、若すぎるといった理由だけで娘に中絶させたときの恨み辛みを言うときはクライマックスといえる。それを物陰で聞いてしまった牧師の夫の無表情だがじっと耐える姿勢も感動的だ。
別室で寝返りも出来ない病気の次女が、なんとか母の近くに行こう、母に見つめてもらおう、母に抱きしめてもらおうと思い、渾身の力を振り絞りベッドから身を落とし、芋虫がはうように母の声のする部屋にゆこうともがく姿を、アップで克明に描くベルイマンのリアリズム。母と長女、母と次女それぞれの親子愛、親子の残酷さ、監督は直視する。人間なんてそんなに美しいものでもないし、見捨てるほど悲しいものでもないのだということを画くのだ。

母は長女の家を去る日が来た。数年ぶりで来てよかったのか、会って良かったのか、しかしお互いの思いのたけをさらけ出し、絆は一歩深まったとも思う。
長年の演奏活動で慢性的な背中の痛み、加齢による力の衰え、演奏家としての寿命もそうは長くなかろう。次女は遠からず死ぬだろう。
牧師の夫は妻の過去を知ってしまったが、知らない振りをして耐えている。そして優しさを絶やさない。
長女夫婦は次女の妹を介護しながら、平穏な日々を、いや何があっても固い絆を切らさずに日々を送るだろう。
バーグマンは愛人でもあるらしいマネージャーに「私にはあなたがいるわ」と気弱にすがるようなまなざしを送り、次の演奏会の場所に行く。
若い頃の水も滴る美貌はもはや片鱗が残っているだけである。人間の弱さ、醜さをさらすバーグマンは私には「カサブランカ」のバーグマンよりずっと美しく見えるのだ。
役中の彼女は芸術家である。芸術とは平穏な親子関係、人道的な感情をも犠牲にしてもよいほどのものなのか。それほどの崇高なものなのかと問うているのだ。おそらくは否であろう。
しかし彼女の感動的なピアノ演奏は世界中の聴衆を感動させ、悩みを和らげ、失恋の痛みをいやし、労働のつらさを忘れさせ、死の恐怖さえ忘れさせるのだ。(終り)
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著者の白崎謙太郎さんの紹介:

この欄で2011年11月30日に『白崎謙太郎著、「日本ヨット史」の紹介と抜粋、要約(1)全体の構成、そして渡辺修治さんとの絆』という記事を掲載しました。
2017年08月04日 に『新刊紹介、白崎謙太郎著、「小網代ヨット史」』という記事を掲載しました。
そして今年は『明治・海・2人ースクーナーとカヌー』という本を白崎さんが執筆し出版しました。
この白崎さんの人となりは次の記事にあります。
「インターネットを拒絶する白崎謙太郎の写真芸術の世界」(2018年04月10日掲載)
併せてご参照下さい。

今日の挿し絵は『カサブランカ』の写真5枚と『秋のソナタ』の写真2枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)













八百屋さんが作った本格的な川越美術館

2018年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
この美術館は三栖右嗣記念館です。正式にはヤオコー川越美術館ー三栖右嗣記念館と言います。三栖右嗣は「みす ゆうじ」と読みます。
この美術館は埼玉県で八百屋さんをしていた川野トモさんが作ったのです。
三栖右嗣さんの絵画を蒐集し展示してある小さいながら芸術性あふれる美術館です。館内にカフェもあり楽しい美術館です。
この美術館を作った川野トモさんがある日、三栖さんのコスモスの絵に感動し、その後三栖画伯と親交を深めました。
そして自分の住む川越市に2012年ご子息幸男さんとヤオコー美術館を建てたのです。そしてそこには三栖右嗣さんの絵画だけ33点を集めて常設展示しているのです。
建物の設計は伊東豊雄氏です。川越の新河岸川のほとりの閑静な場所にあります。
川野トモさんは本当に絵が好きな方だったのです。
それではヤオコー川越美術館に展示してある三栖右嗣画伯の油彩画の写真を示します。

1番目の写真は「麓郷早春」と題した長い大作です。北海道の大地の生命感を力強く描いた1982年の作品です。圧倒されました。

2番目の写真は「信州うみのくち」という題で1997年作、60号の大作の油絵です。
雪の降る木崎湖です。湖面には沿岸の雪が写し出され何故かシーンとした気分になります。私の好きな情感豊かな絵です。

3番目の写真は「春園」という題の大作の部分です。三栖さんの晩年の傑作です。

4番目の写真は冬の北海道の牧場風景です。この絵は展示されていませんでした。

5番目の写真は冬の灯台風景です。

6番目の写真は川越美術館の展示室の風景です。内部の展示室はこのような部屋が二つあり、三栖右嗣さんの絵画だけが33点も展示されているのです。そして33点の絵画の題目や描かれたいきさつが丁寧に説明されています。

7番目の写真はもぅ一つの展示室です。大きな油彩画が間隔を開けてゆったりと展示してあります。

8番目の写真は展示室を出たところにあるカフェです。壁には三栖さが描いた櫻花の大作が掛けてあります。

川越美術館は去年訪問しました。それは驚きと感動の体験でした。
そしてスーパーを経営する川野トモさんと子息の幸夫氏が立派な美術館を作ったことにも感動したのです。
川越からの帰りの車の中で家内が三栖右嗣さんは一流の芸術家だ、そして安井曽太郎や木下孝則の画風に似て柔らかな写実が優しいですねなどとつぶやいていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料==============
(1)ヤオコー川越美術館のホームページ、
    http://www.yaoko-net.com/museum/
(2)三栖右嗣さんの略歴、
ヤオコー川越美術館がコレクションする作家三栖右嗣は、埼玉県比企郡ときがわ町にアトリエを構え、制作活動をおこなってきました。 現代リアリズムの巨匠といわれ、人気作家であった彼の作品は、単に写真のように対象を精緻に写し取るリアリズム絵画ではなく、彼の優しい視点が反映された人間味のあるものです。物を捉える並はずれた技術力と温かみのある描写の作品の数々は、何度でもその前に足を運び、対峙したくなる非常に質の高い、充実したコレクション群です。
略歴 :
1927(昭和 2年) 神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年) 東京藝術大学(安井曽太郎教室)卒業。
1972(昭和47年) アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年) 沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
「大賞受賞記念 三栖右嗣展」<読売新聞社主催><新宿伊勢丹>
1976(昭和51年) 第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
1977(昭和52年) 国立公園協会の依頼により『小笠原・父島より南島・母島を望む』を制作。同協会蔵。
個展<上野松坂屋>。
1979(昭和54年) クライスラー画像<スペイン・マドリード>にて個展。
個展<上野松坂屋、松坂屋本店(名古屋)>。
中略:
1994(平成 6年) 緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1995(平成 7年) 個展 <松坂屋本店(名古屋)>。
1996(平成 8年) 『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年) 4月 逝去 享年82歳
2012(平成24年) 「ヤオコー川越美術館 三栖右嗣記念館」開館。

今日のミサと長寿の祝い

2018年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は普通の主日のミサの中で高齢者の長寿も祈りました。敬老の日を早めに祝ったのです。
神父さまが皆に上げる記念品を聖別して、その後に77歳以上の信徒に配りました。
ミサ終了後、記念撮影をし、その後で「長寿を祝う集い」がありました。
帰りにバウムクーヘンのお土産を貰って帰って来ました。
カトリック小金井教会は1600人位信徒がいますが、77歳以上の信徒は200人以上いるそうです。
高齢化も進みまししたが最近、小金井教会から2人の神学生が生まれました。
これも喜ばしいことです。今日写してきた写真をお送りいたします。

1番目の写真は普通のミサどうりに聖餅(聖なるパン片)を加藤主任司祭が信徒一人一人に手渡している場面です。

2番目の写真は記念品の入った籠へ加藤神父様が香の煙をかけて聖別している場面です。

3番目の写真は加藤神父様が聖別した記念品を77歳以上の信徒一人一人に手渡している場面です。

4番目の写真は記念品として頂いたマリア様の聖画です。

5番目の写真は「長寿を祝う集い」の光景です。ミサ終了後、記念撮影をし、その後で「長寿を祝う集い」がありました。

カトリック教会は世界各地に総計22億人の信者がおりますが、各地の祝日を尊重してミサの中で一緒に祝います。
日本では七五三の祝いやお正月や成人の日なども大切にしています。通常のミサの中でそれぞれの祝日の祈りもします。日本の26聖人のためにも祈っています。
ローマ法王はこの現地主義を重要なことと考えているのです。

我が町、小金井とはこんなところです

2018年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
午前中に駅前のイトーヨーカドーに行きました。その6階の駐車場から写した小金井の写真をお送りいたします。

1番目の写真は小金井市の北西の半分です。西には奥多摩の山々が連らなって見えます。南西には丹沢の山稜があり、その上に富士山が見えます。

2番目の写真は学芸大学の敷地にある森です。私の家はこの森の手前にあります。

3番目の写真は小金井市の北方角の写真です。北側は小平市に接していてその先は茫々たる関東平野です。

4番目の写真は小金井市の北部を占めている都立小金井公園です。

5番目の写真は小金井市の南部を占めている都立武蔵野公園です。
我が町の自慢はこれらの2つの広大な公園があることです。
JR中央線の小金井駅から新宿まで30分で東京駅までは45分です。
緑が多くて静かな住宅街が広がっている町です。
ついでに参考資料もお送りします。
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小金井市は、東京都のほぼ中央、武蔵野台地の南西部にあり、都心から約25km西方に位置しています。
 市の東は武蔵野市、三鷹市、西は国分寺市、南は調布市、府中市、北は小平市、西東京市に接しており、市の中央部には中央線が東西に、東南部には西武多摩川線が南北に通り、中央部には小金井街道が南北に、北部には五日市街道が東西に通っています。

2万年以上も前から人が住みはじめ、江戸時代、玉川上水が完成し、新田開発が活発となり、急速に集落が発達しました。戦後、住宅都市化が進み、人口が約4万人となった昭和33年10月1日、市制を施行しました。その後、人口は急増し、現在は、11万人を超える人が小金井市で暮らしています。市内に大学、研究施設が設置され、住宅都市、文教都市としての性格が強いまちです。

小金井の地名の由来
 小金井の地名は、「黄金に値する豊富な水が出る」ことから、黄金井(こがねい)が小金井になったと言われています。 (東京の名湧水)
 また、中世には、現在の前原町南部が金井原(かないはら)と呼ばれており、あるいは、土地の支配者金井氏にちなむ地名という説もありますが、明らかではありません。


平野茂樹著、「今回のジャカルタで開催された第18回アジア競技大会に想う」

2018年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
始めに著者の平野茂樹さんのご紹介をしたいと思います。
平野茂樹さんは昔、私が仙台に住んでいたころの近所の友人でした。今年の3月に大磯のプリンスホテルで60余年ぶりにお会いし、彼の実に興味深い趣味のお話を伺いました。そこでいろいろな面白い話をこの欄に寄稿して下さいとお願いしました。
朝日新聞で停年まで働いていたことは知っていましたが彼の趣味の世界は知りませんでした。
白馬の麓に大きな山小屋を3回も建てかえて、仲間と楽しく登山やスキーの基地として使っています。そしてヨットも楽しんでいることを話してくれました。
平野茂樹さんは親切で魅力的な人間です。おのずと仲間が彼の回りに集まってきます。
人との付き合い方が下手な私にとっては感動的な存在です。
そして、平野茂樹著、「カンボジアの夕日と子供達の瞳に魅せられて」(2018年03月05日掲載)という記事をご寄稿してくださいました。
そして「奇跡の山小屋と呼ばれ続けて! =半世紀以上続いた3つの謎」(2018年03月10日掲載記事)もご寄稿頂きました。
今日、以下にある記事は平野茂樹さんによる3番目のご寄稿です。
平野茂樹さんへ感謝しながら皆様へお送りします。
===平野茂樹著、「今回のジャカルタで開催されたアジア大会に想う」===
仙台の時代からのある親友の長期海外滞在で頑張っている場所がインドネシアのジャカルタでした。
そのジャカルタが今回のアジア大会の開催地だったです。それで今回の大会は始めから興味深く見ていました。
そうしたら日本選手の活躍が、大会が進むに従って期待を大きく上回ってきたのです。
国内の次期総裁選絡みの報道をはじめ国内のニュースにはあまり興味が持てなかったので、時間が空けば民放とNHKBSでアジア大会を観ながら日本選手を応援していました。

大会が始まる前の国内のスポーツ関係の出来事と言えば、日大のアメフト問題を皮切りに、ボクシング団体や体育協会の体質が問われる問題が続き暗い話ばかりでした。
そんな折、アジア大会を応援することで気分が晴れたのです。
国の威信を背負った健気な若い選手たちの頑張りと、良い結果を見せられているうち、どんどんアジア大会の面白さに引きずり込まれてゆきました。
終わってみれば、日本の成績は、質(金)量(メタル数)ともにアジアナンバー2の座を、余裕を持って堅持できていました。
一方、韓国では選手が兵役免除の特権を与えられ、アジアナンバー2を目指していましたが、結果は第3位でした。
しかしもちょっと待ってください! 日本が韓国を大きく切り離したからと言って、手放しに安堵してよいのでしょうか?
 不思議な現象ですが、今回のアジア大会では、朝鮮半島関連で、元々同一民族だった国が、3つ登録されています。韓国、北朝鮮、それにコリア(南北合同チーム)3国です。
 この3国の金銀銅を合算してみましょう。韓国(49、58、70)、北朝鮮(12、12、13)コリア(1、1、2)合計218(62、71、85)、一方日本は205(75、56、74)で、勝っているのは金だけで、銀と総計では負けています。五分五分です。質で勝って量で負け、まぁ拮抗しているとみてよいでしょう。

一方、中国と比べると比較になりません。質、量、ともに断然一位です。
 負け惜しみで、人口が13.9億と1.3億と10倍違うし、中国は国営プロ集団で、日本はアマチュア中心の違いがあると言い訳していて良いのでしょうか?

ちょっと視点を変えて考えてみよう。
人口統計を持つ世界約190カ国の総人口約73億人のうち、アジアの人口は約40億人で、全体の54%です。
中国、インドという、いずれも10億を超える2つの人口大国を持つアジアとは言え、世界の半分以上をはるかに超えた民族がアジア人なのです。
 このうち、スポーツ、芸術を含めた近代国家として世界に通用する国は、日本を除くと、中国、韓国、台湾、シンガポールぐらいと私は思います。
 戦前、善悪は別とし、近代国家として欧米に追いつき、追い越せと切磋琢磨した日本が、中国大陸の中に満州帝国をつくり短期間でしたが、ヨーロッパ諸国に負けない近代国家を造り上げました。
そして中国、韓国、台湾、シンガポールだけが、現在、近代国家として世界に通用しているのです。
 東南アジアの多くの国々は、戦前、ヨーロッパの植民地として利用されましたが、近代国家としての国の形や教育がなされていなかったため、スポーツと芸術を含む近代国家として現在、世界に通用していないのではないでしょうか?
今回のアジア大会の結果は、以上のことを良く現していると思いますはいかがでしょうか?
 戦前の日本国家の行動を正当化する考えは微塵もありませんが、アジアの歴史を考えさせる大会でした。

さて今度は日本だけに絞って考えてみよう。
日本の戦績から日本の現状を考察してみよう!
水泳で6冠を達成し、女性初のMVPを授賞した、スーパー高校生・池江璃花子の出現があったとは言え、75個の金メダルの半分以上は日本女性選手が獲得し、アジア大会初めての女性MVPも日本選手が獲得した快挙を成し遂げました。
スポーツの世界を切っ掛けに、日本のウーマンパワーが世界に向けて動き出した年とわたくしは捉えたい! 
2年後の東京オリンピックの年を元年とし、女性の新しい時代をスタートさせたい。
いままで地球の歴史を男性中心に創り上げてきたが、女性中心に徐々に切り替え、女性の本能を100%生かした平和主義が人類に定着するまで、一旦女性にすべてを委ね、男性はサポート役に徹する時代をスタートさせたい。
男性中心の武力集団が、多くの地球上の女系中心の先住民を征服し、男色文化で作り上げてきた地球の歴史が、いま、行き詰っていると、私は見ている。
武力中心でしか運営できない男性哲学に、一旦遠慮していただき、武力亡き地球の歴史が動き出すまで、女性にすべてを託してみる哲学を確立し、実行に移しだすのを見届けたいと想う。
アジア大会が終わり、私は本気で以上のことを考えている。みなさん! お笑いください!
(9月3日 平野茂樹)







世界遺産の富士山の写真を河口湖、西湖、精進湖から写しに行く

2018年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」が国連によって世界文化遺産に認定されたのは2013年です。それ以来、富士山の写真を撮りながら、この美しい山が信仰の対象になってきたことを考えています。人々に芸術的な刺激を与えてきたことを想っています。自分のような者でも富士山の写真を写したくなるのも大げさに言えば芸術的な刺激を受けためででしょうか。
昨日はあいにくの曇り日です。しかし雲の位置が遥か高空で富士山の頂上よりも上にあります。初秋の雲が空一面に広がっています。青空でないので鮮明な写真は撮れませんが秋の気配の漂う静かな富士山が写せると思い中央高速道路の河口湖インターを出ました。

1番目の写真は河口湖の旅館街の岸から見上げた富士山です。以前に泊まったことがある美富士荘という旅館の駐車場から見上げた富士山です。
晩秋から冬になると大きな雁の群れが波打ち際を歩いています。沖にはカモ類が泳いでいます。
左の暗い森の下からは河口湖を一周する観光船が出ています。その発着場の周囲には土産物屋やレストランが沢山あって河口湖の繁華街になっています。夏には花火大会もあります。

2番目の写真は河口湖の西の岸辺からの富士山です。コスモスが咲いていました。
コスモスを手前にして秋の風情を出そうとしましたが、あまり良い写真にはなりませんでした。

3番目の写真は同じ河口湖の西の岸辺からの富士山です。ここには何十年も同じ小型のヨットが係留してあります。手入れがしてあるので時々セイリングしているのでしょう。ヨットの主にお会いしたと思っていますが、姿を見たことがありません。このような静かな湖で独りでセイリングしているのでさぞかし高貴な精神の持ち主だろと思っています。富士山とヨットのある風景は好きなの河口湖に来ると必ず写真を写します。

4番目の写真は河口湖から西湖に登って行ったらあったススキの原の風景です。ススキは尾花とも呼ばれ秋の七草の一つです。箱根の仙石原のススキのようだと家内が興奮して撮ってきた写真です。

5番目の写真は西湖の岸辺です。左手の黒々した山はその遥か左にある富士山から流れて来た溶岩が固まって出来た山です。これも富士山の一部なのです。西湖からは溶岩の山のかげになって富士山の主峰が見えにくいのです。
この湖岸は波打ち際まで車を入れて良い場所なので何度も来ました。昨日は暗い雲の下で溶岩の山が晩秋の風景のように写っています。やがて寒い冬もやって来るのでしょう。

6番目の写真は精進湖の西岸から見た富士山です。この近所に昭和天皇の泊まった山田屋旅館があります。
私共も何度か泊まりました。そして昭和天皇がこんなにも質素な宿に泊まったことに驚いたことなどを思い出しました。

7番目の写真も精進湖の西岸から見た富士山です。遠景も写るように撮った写真ですが、こうすると同じ場所からの写真でも随分と印象が変わります。
それにしても富士五湖は随分何度も遊びに来たものです。奥の本栖湖でもカヤック遊びもしました。
泊まったホテルもいろいろでした。何と言っても思い出の深いところは山口湖の夏だけ営業のグランドホテル(横浜のグランドホテルの経営)や河口湖の木造だった頃の富士ビューホテルなどです。この二つのホテルは戦前のリゾートホテルの雰囲気があったのです。そんな雰囲気も消えてしまって何十年にもなります。

昨日を撮って来た富士山の写真をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=======================
「何故、富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産か?」
2016年08月27日掲載の記事です。

国連のユネスコの世界遺産には3種類に分かれています。知床や白神山地のような自然遺産と、京都の文化財や白川郷の合掌造り集落などの文化遺産、と日本にはまだ無い複合遺産の3種類です。
自然遺産とは文字通り非常に美しい景観の山や湖や海の組み合わせが主なものです。一方文化遺産とは人類の遺産として残すべき人間の作った特別な文化のことでです。
複合遺産とはこの2種類の遺産が複合したもので、日本にはまだありません。

今日、ご紹介する「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」は文化遺産に分離されます。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と、芸術活動に対して認定されたものです。
従って富士山や富士五湖や幾つかの浅間神社がそれぞれ単独で認定された訳ではありません。
しかし観光客を集めるためもあって、「世界遺産の忍野八海」を見に行こうとか「世界遺産の北口富士浅間神社」をお参りに行こうという表現がよく使われています。
しかしこの表現は、文化という二文字が省略されているので、しばしば誤解を招くことになります。

さて、2013年に認定された「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」には、それを証明する構成資産が全部で25箇所もあるのです。この25の構成資産の全部を一まとめにして世界文化遺産に認定されたのです。
すなはち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが世界文化遺産に認定された理由はそれにまつわる文化が貴重だったからなのです。

一昨日、この25の構成資産の一つである北口富士浅間神社の写真をいろいろ撮って来ました。その写真の説明の前にまず全体的な説明をいたします。
静岡県と山梨県にまたがる富士山は古来より信仰の対象とされ、その上、芸術上の主要な題材としてされてきました。
その日本人の富士山にまつわる宗教活動と芸術活動が国際的に非常に貴重だと認められたのです。
それでは芸術活動とは具体的に何を意味するのでしょうか?
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が、日本最古の歌集である「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、『聖徳太子絵伝』です。
そして江戸時代になると、富士登山が「富士講」等を通じて庶民に爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになると、ゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

それでは一方の宗教活動とは何でしょうか?
それは富士山信仰のことです。富士山そのものを信仰の対象としたもので修験道の山行きとそれを支える幾つかの登山口にあるそれぞれの浅間神社です。修験道の山行きが重要なので吉田口や須走口から登る登山道などもこの文化遺産に含まれているのです。
それでは構成資産の一つである北口富士浅間神社を一昨日撮って来た写真に従ってご紹介いたします。
・・・・以下は省略します。・・・・・

マケイン上院議員の葬儀が示すアメリカ社会の健全さ

2018年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
私はアメリカが好きです。若い頃に留学し許嫁を日本から招んでアメリカで結婚しました。その時アメリカ人が親身になって私どもを助けてくれたのです。
その後もアメリカ人といろいろな事がありました。
アメリカはベトナム戦争やイラク戦争などなど悪いこともしました。しかし私の感情ではアメリカは理想の国であり続けたのです。
そんな事情もあったので、トランプ大統領の出現以来のアメリカ社会の分裂に心を痛めていました。
多くの日本人はアメリカの混乱を遠方の対岸の火事のように感じ、まあトランプさんもいろいろ面白い事をしてくれると眺めています。
しかし私は理想の国、アメリカが地に堕ちたようで悲しいのです。
トランプさんが大統領になってからもう一年以上になります。
そんな折にマケイン上院議員の葬式がありました。
同じ共和党に属しながら、マケイン氏とトランプ氏は繰り返し表立って対立し、互いを批判してきたのです。マケイン氏の遺族は、トランプ氏に参列を控えるよう伝えていました。
その葬式の時のブッシュ元大統領とオバマ前大統領の弔辞を私は読んで、やっと明るい気分になりました。
アメリカ社会は相変わらず健全なのです。理想の国だと思えるのです。

その弔辞の内容を整理して個条書きにして示します。
出典は、https://www.bbc.com/japanese/45386450 です。

ブッシュ元大統領の弔辞です。
(1)「アメリカはもっとまともだ!」
2000年大統領選の共和党予備選でマケイン氏に勝ったブッシュ元大統領は、マケイン氏の勇気や誠実さ、名誉を称えたのです。そして次のように語ったのです。
「自由の欠落を知る人ならではの情熱で、自由を愛していた」
「ジョン・マケイン氏は長い議員生活の中で、自分の国にふさわしくない政策や慣行と何度か対決した。ジョン・マケインはその時々の権力者に面と向かって、『自分たちはもっと、まともなはずだ。アメリカはもっとまともなはずだ』と力説した」と。
自分たちはもっと、まともなはずだという言い方がブッシュらしくて真情に溢れています。彼は北朝鮮などを「ならずもの国家」と言ったのです。

(2)権力の乱用を唾棄した
「ジョン・マケインは真っ先に、自分は完璧な人間じゃないと認めるはずだ。けれども、人間がこれまで作り上げた中で最も完璧な国の理想のために、人生を捧げてきた」
「そしてジョンは何より、権力の乱用を唾棄(だき)した。偏見と差別にまみれた人間や、えばり散らす暴君は、まったく受け入れなかった」

オバマ前大統領の弔辞です。
(3)マケイン氏を戦士、為政者、愛国者と讃えた
オバマ前大統領は、2008年米大統領選で戦ったマケイン議員を、「戦士、為政者、愛国者」で、アメリカを偉大にしている資質の多くを体現している「傑出した人」と称えた。

(4)一番重要なことは「他人を感動させる力、法の支配や人権といった普遍的な価値観」
オバマ氏は、自分とマケイン氏は生まれ育ちも政治的立場も大きく異なっていたが、「同じチームの所属だというのは、お互い疑っていなかった」と述べ、党派を超えた共通理念で通じ合っていたのだと話した。
「この国の安全や影響力はただ単に軍事力や財力で得るものではないと、相手を意のままにする力で得るものではないと、ジョンは理解していた。そうではなくて、他人を感動させる力、法の支配や人権といった普遍的な価値観を死守する姿勢、そして全ての人間には神から授けられた尊厳があるのだと譲らないこと、そうしたことから、この国の安全や影響力は得られるのだと、ジョンは理解していた」とオバマ氏は述べた。

マケインさんのこと、
(1)海軍提督の祖父と父のもとで育ったマケイン氏は、自分自身も海軍将校となりベトナム戦争に従軍。1967年にハノイ上空で撃墜され、5年半の捕虜生活を送った。撃墜時の負傷の手当てが不十分だったのに加え、たびたび拷問を受けたことから、両腕が上まで上がらないなどの後遺症が終生残った。

(2)選挙資金規正法の改正成立のため民主党議員と協力し、環境保護の推進を支持。イラク戦争開戦は支持したものの、米政府がテロ容疑などで拘束した相手を「水責め」などの手法で尋問するのは拷問だと呼び、激しく批判した。

(3)葬儀で弔辞を読む人に加え、自分の棺を運ぶ担ぎ手の顔ぶれも、マケイン氏自身が選んだのです。
その人選は、党派を超えて活動した生涯を反映するもので、ハリウッド俳優でリベラル活動家のウォーレン・ベイティー氏、無所属のマイケル・ブルームバーグ前ニューヨーク市長、選挙資金規正法改正のため一緒に法案を作った民主党のラス・ファインゴールド元上院議員、ロシアの反政府政治家ウラジーミル・カラ・ムルザ氏、親友のバイデン前副大統領(民主党)など14人が交代で、議員の棺を大聖堂まで運びました。

(4)ジョン・マケイン米上院議員の埋葬
遺体は米メリーランド州アナポリスの海軍兵学校に埋葬された。
1958年に海軍兵学校を卒業し、後に戦闘機パイロットとしてベトナム戦争で戦ったマケイン氏は、近親者や同級生、現在の士官候補生たちが見守るなか、敷地内の墓地に埋葬されました。軍用機の編隊が、上空を飛んで、故人を称えました。
マケイン氏は同級生で友人のチャック・ラーソン提督の隣に埋葬された。ラーソン提督は2014年の時点で、自分と妻、そしてマケイン夫妻のために場所を予約していたのです。
「チャックは、相棒の僚機を取り戻しました」と、提督の妻サラ・ラーソンさんはCNNに話したそうです。

書きたいことはまだありますが、長くなるので終りにします。
やはりアメリカ社会は相変わらず健全なのです。理想の国だと思えるのです。

今日の挿し絵代わりの写真は留学したオハイオ州の北にあるエリー湖の風景と、その東端にあるナイヤガラの滝の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









FaceBookは面白い!その楽しみ方いろいろ

2018年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
私は「後藤和弘のブログ」の他にFaceBookという国際的な SNSと日本の趣味人倶楽部にも加入していて、ブログと同じ内容の記事と写真を掲載しています。
するとこのブログとFaceBookの読者層が非常に違うので記事に対する反応が非常に異なっていて面白いのです。
ブログの方は毎日平均約1200人ほどの方が読んで下さっています。
遠方に住んでいる兄弟や昔からの知人や友人には毎日見て下さっている方々もいるのです。感謝の気持ちでいっぱいです。
しかしブログの方の読者は高齢者が多いようです。時々頂くコメントの文章が折り目正しい昔風の日本語のことが多いのです。
一方、FaceBookの読者層は若い人々やフィリピン、タイ、台湾、韓国、中国、そしてアメリカ、イギリス、フアンス、ドイツなどなどのような外国の方々もいるのです。
そのFaceBookには私の友人が2703人もいます。
その方々の一部が毎日短いコメントを下さいます。その上、記事の内容に同感すると、「いいね!」とい簡単な反応を示してくれます。多い日にはこの「いいね!」が100人以上になることも珍しくありません。
FaceBookの私の友人の若いひとは20歳位から30歳代、40歳代、50歳代の現役の男女です。職業も会社勤めの人、自営業の人、看護師、美容師、公務員、教師、主婦などなど実に千差万別なのです。
しかもFaceBook会員はみな社会へ前向きで、常に建設的な意見を持っているのです。そのせいで明るい幸せな気分になれるのです。
ところで私の書く記事は国際情勢や国内政治の問題から観光旅行や趣味の話など話題はなるべく広くしようと努力しています。そして記事を書くときは常に歴史的な記述をまじえて書きます。若い人々に日本の変化をお伝えしようと思っているからです。
もう一つのFacebookの良い点は外国人が自動翻訳機能を使って読んでくれることです。フィリピン、タイ、台湾、韓国、中国、そしてアメリカ、ギリス、フアンス、ドイツなどなどのような外国の方です。
その故に記事を書く時はどこの国の人も傷つけないように公平に書くようにします。このことは私にとっては非常に重要なことです。書く内容が偏狭にないらないで普遍的な内容になるのです。普遍的な価値のある文章を書くというのが私の願望なのです。大げさに言えば私の人生修行なのです。
FaceBookの楽しさは外国の美しい風景の写真や動画を毎日楽しめることです。
自分の趣味だったヨットのセイリングの動画が楽しめることです。とくに繁田 慎吾さんは霞ヶ浦での自分の大型ヨットの動画をよく掲載なさいます。
そして中村文政さんも霞ヶ浦のヨットに泊まったときの記事を掲載してくれます。
私も昔25年間、霞ヶ浦にヨットを係留していたので懐かしいのです。
趣味と言えば、あるポーランドの友人は頻繁に美しい油彩画の大きな写真を掲載します。
楽しい紙面です。
タイ王国のSunitra Satornさんは毎回美しいタイの花々を毎日掲載しています。そして私の記事を翻訳して詳しく読んで下さっています。彼女の知性には感服しています。

FaceBookの楽しさはこれだけではありません。たまには深刻な議論になることもあります。
一例として第二次世界大戦に関する議論を短く簡略にして以下に示します。

今年の8月9日 に私は、「今日は長崎原爆慰霊祭・民家、教会、無差別攻撃の無惨さ」という記事を掲載しました。
その冒頭部分です。
・・・今日は73年前に長崎へ原爆が落とされた日です。長崎で安倍総理も出席する慰霊祭がおごそかに開催されます。
広島への原爆投下は8月6日でした。その日、満州へソ連軍が突如攻め込んで、満州は阿鼻叫喚の地になったのです。そんな中、8月9日、長崎の市民を対象にした原爆攻撃がなされたのです。
長崎市への原子爆弾投下では、当時の長崎市の人口24万人のうち約7万4千人が死亡し、建物の約36%が全焼または全半壊したのです。
原爆投下後の長崎市の写真を示します。・・・

以上の記事に対して以下のコメントを頂きました。
(1)Ken Hoさん(日本在住の中国系のイギリス人)、
毎年日本人は原子爆弾の恐ろしさを皆に思い出させる。そして, それはひどい無差別兵器です.
しかし, 日本は, アジア諸国で何百万人もの死者を出した悲惨な戦争を始めた理由を思い出していない。日本はアジア諸国を植民地にしようとしたのです。
日中戦争での, 中国の民間人の死亡数は広島と長崎よりも多かったのです。中国軍民の死者は2000万人と認識しています。
日本は被害者だけでなく, 戦争での侵略者でもあったことも忘れないようにしましょう。

(2)浦野 明人、
あなたは正しいですが, 私はあなたに完全に同意できません。原子爆弾については, 核兵器がどのように恐ろしいものであるかを世界へ示すことに意味があるのです。あなたは私たちを理解してください。 イギリスとソ連は中国を助け日本を攻撃したのです。
貴方は中国人の死者が2000万人と言っているが、その数はどのように計算するのですか?

(3)Ken Ho、
2000万人とは世界的な認識ではないでしょうか。以下を開いてご覧下さい。
https://www.nationalww2museum.org/.../research-starters...
原爆投下は 最終的には戦争を終わらせるために使用したのです。
もし日本が原爆を持っていたなら, 中国にも使っていたでしょう。

(4)Christian Haenschel (日本在住のドイツ人)
この 原爆は ドイツに 落とす予定でした‼️ ドイツが その前に 連合軍に負けたのに、 日本は それでも 戦争を続けたので 日本に 落とされたのです‼️
ドイツが 負けた時に 日本も 降伏してたら、 広島と 長崎に 落とされなかったでしょう‼️
残念です。‼️

(5)Geneviève Deliryさん(日本語の読めるフランスの女性)
原爆だけは、no more ! です。

(6)後藤 和弘、
Christian Haenschel さん、Ken Hoさん、そして浦野 明人 さん、皆様の意見は大変貴重です。是非、日本人にも読んで頂きたいと思っています。
この3人の意見の交換は日本人の正しい歴史認識に非常に役に立つと信じています。
真剣に討論して下さいました浦野 明人 さん、Ken HoさんとChristian Haenschel さんに深く感謝します。
最後に私の感じ方を言わせて頂ければ、私は、Ken Hoさんの意見に強く同感することを禁じ得ません。
有難う御座いました。
・・・・

今日はFaceBookの楽しみ方のいろいろをご紹介いたしました。
今日の挿し絵代わりの写真は、Sunitra Satornさんへ敬意を表するために「タイの花の写真」を検索して選んだ花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘

1番目の写真はタイのスーパの花売り場よく売っているランの花です。

2番目の写真は、日本語名:源平臭木、 タイ語名:プアン・ゲーオ พวงแก้ว (房状になった最高価値の花)の
写真です。

3番目の写真はウドンタニ県クムパワピー郡にある湖、ノーンハーンのハスの花の風景です。

晴れたので多摩湖と狭山湖周辺の森の中をドライブして来ました

2018年09月03日 | 写真
数日続いた雨が止み午後から急に晴れ上がって青空が見えてきました。
青空に誘われ多摩湖と狭山湖の緑深い森の中をドライブして来ました。

多摩湖は村山貯水池の通称で、狭山湖は山口貯水池の別名です。隣接していますが多摩湖は東京にあり、狭山湖は埼玉県にあります。
この2湖は東京都の水道水に使っているので周囲は立ち入り禁止の森が広大にあります。
その森の風景が楽しめるように自転車道路と細い車用の道が曲がりくねってついています。

今日は森の緑に囲まれた道をゆっくり車を走らせてきました。体が樹々の緑に染まったような気分になります。
窓を開けると新鮮な空気が流れ込み蝉の声が森に響いています。

自宅から1時間くらいの所ですが久しぶりに行きました。
晩秋には紅葉が綺麗になる所なので秋には何度も行きます。
先程、撮って来た写真をお送りします。森の新鮮な空気をご想像して頂けたら嬉しく思います。