<江戸湾台場に据えられた加農砲(靖国神社)>
東京の西の外れ、旧南多摩郡部から横浜に抜け、更に京急で三浦半島は先端に近い馬堀まで遥か遠い約2時間半の旅、戦争遺構を訪ねてみた。
三浦半島の一角は古くはペリー率いる黒船が来航し開港を迫り、江戸湾に面する 拠点に砲台を置くお台場など、海防構築が進められた。海防構築は明治維新以降も、「東京湾要塞地帯」として引き継がれ、明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上続いた。要塞地帯は基地周辺の地形や軍船の動向、砲台の位置関係などを外部に知られないよう軍が写真撮影スケッチ、立ち入りなどを厳しく制限した。戦後65年、京浜大津駅の住宅地の一角に「要塞地帯標」など未だに残っているのが、現代では不思議なぐらいの場所である。
<九六式十五糎榴弾砲(野戦重砲兵第一連隊会他から靖国神社奉納)>
要塞地帯の一角である、馬堀に「陸軍重砲兵学校」があった。
前身は明治22年(1889)東京湾の要塞を守備する要塞砲兵隊の幹部を養成する「要塞砲兵幹部練習所」として中隊は千葉で誕生した。
浦賀の海軍屯営跡に移転し、明治31年(1898)現在の馬堀の地に移転した。
その後、「陸軍重砲兵学校」と改称し終戦まで継続した。学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えたと言われている。終戦後の一時期、浦賀が引揚港となり、旧兵舎は陸軍の復員手続きや馬堀擁護所として使用された。
兵学校は現在馬堀小学校、馬堀中学校、山側が馬堀自然教育園にそっくり、転用されている。建物の殆どが新たに作られているが、その中でも兵学校当時の姿を留めるものもある。
その所在は「東京湾ロマンおおつみち」・・・大津探訪クラブで発行された案内MAPで案内されていることが発端であった。
春先に訪れた時、その所在は確かめたものの、戦争遺構の何に相当するか判らず、まして一番肝心な記念碑も見ること出来ずに虚しい探訪であった。
そんなことから、改めての三浦行きには準備に怠りなく進め、現地では場所の特定も合わせ、管理下の学校に記念碑見学の機会を頂き、戦争遺構の場所の特定とも合わせ、もやもやしたものが、一気に解けた。
戦争遺構として一番その姿を留めているのは山側の馬堀自然教育園である
自然のまま旺盛な樹木の中に埋まる様に火薬庫の弾丸庫が見届けられる。鬱蒼とした樹木に昼尚暗く、周辺には大きな水脈があり、導水路を通じて流れているが、溢れた水が地面に浸透し、猛烈な湿気の重い空気が立ち込める。真夏の暑い時期に殆ど風もなく猛烈な湿気のジャングル地帯は蚊の温床地帯で格好の攻撃エリアでもあった。そんな環境から中々訪れる人も少なく、近代遺産は自然の中に埋もれるようであった。
小中学校の丁度真中の小高い丘にかっての将校集会所があり、その隣に記念碑がある。たまたま居合わせた中学校の先生に場所をお聞したが、判らず教頭先生に聞き初めてその場所が判った。まあ、歴史遺産もそんな存在であったのである。
東京湾の要塞守備から、中国大陸から東南アジアで拡がった戦線の要として重砲兵は此処から第一線に送り出されたのである。
詳細は陸軍重砲兵学校で報告されている
東京の西の外れ、旧南多摩郡部から横浜に抜け、更に京急で三浦半島は先端に近い馬堀まで遥か遠い約2時間半の旅、戦争遺構を訪ねてみた。
三浦半島の一角は古くはペリー率いる黒船が来航し開港を迫り、江戸湾に面する 拠点に砲台を置くお台場など、海防構築が進められた。海防構築は明治維新以降も、「東京湾要塞地帯」として引き継がれ、明治14年(1881)から太平洋戦争終了の昭和20年(1945)の半世紀以上続いた。要塞地帯は基地周辺の地形や軍船の動向、砲台の位置関係などを外部に知られないよう軍が写真撮影スケッチ、立ち入りなどを厳しく制限した。戦後65年、京浜大津駅の住宅地の一角に「要塞地帯標」など未だに残っているのが、現代では不思議なぐらいの場所である。
<九六式十五糎榴弾砲(野戦重砲兵第一連隊会他から靖国神社奉納)>
要塞地帯の一角である、馬堀に「陸軍重砲兵学校」があった。
前身は明治22年(1889)東京湾の要塞を守備する要塞砲兵隊の幹部を養成する「要塞砲兵幹部練習所」として中隊は千葉で誕生した。
浦賀の海軍屯営跡に移転し、明治31年(1898)現在の馬堀の地に移転した。
その後、「陸軍重砲兵学校」と改称し終戦まで継続した。学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えたと言われている。終戦後の一時期、浦賀が引揚港となり、旧兵舎は陸軍の復員手続きや馬堀擁護所として使用された。
兵学校は現在馬堀小学校、馬堀中学校、山側が馬堀自然教育園にそっくり、転用されている。建物の殆どが新たに作られているが、その中でも兵学校当時の姿を留めるものもある。
その所在は「東京湾ロマンおおつみち」・・・大津探訪クラブで発行された案内MAPで案内されていることが発端であった。
春先に訪れた時、その所在は確かめたものの、戦争遺構の何に相当するか判らず、まして一番肝心な記念碑も見ること出来ずに虚しい探訪であった。
そんなことから、改めての三浦行きには準備に怠りなく進め、現地では場所の特定も合わせ、管理下の学校に記念碑見学の機会を頂き、戦争遺構の場所の特定とも合わせ、もやもやしたものが、一気に解けた。
戦争遺構として一番その姿を留めているのは山側の馬堀自然教育園である
自然のまま旺盛な樹木の中に埋まる様に火薬庫の弾丸庫が見届けられる。鬱蒼とした樹木に昼尚暗く、周辺には大きな水脈があり、導水路を通じて流れているが、溢れた水が地面に浸透し、猛烈な湿気の重い空気が立ち込める。真夏の暑い時期に殆ど風もなく猛烈な湿気のジャングル地帯は蚊の温床地帯で格好の攻撃エリアでもあった。そんな環境から中々訪れる人も少なく、近代遺産は自然の中に埋もれるようであった。
小中学校の丁度真中の小高い丘にかっての将校集会所があり、その隣に記念碑がある。たまたま居合わせた中学校の先生に場所をお聞したが、判らず教頭先生に聞き初めてその場所が判った。まあ、歴史遺産もそんな存在であったのである。
東京湾の要塞守備から、中国大陸から東南アジアで拡がった戦線の要として重砲兵は此処から第一線に送り出されたのである。
詳細は陸軍重砲兵学校で報告されている
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