朝の1時間半に及ぶ行脚に周に2回は欠かさず歩いているのがこの浅川である。
そんな浅川を主役に紅葉真っ盛りの折りに高幡不動から、石田寺まで歴史史跡散歩が実施され、その案内役の大役を仰せ使った。
毎年、この時期、日野市観光協会の主催で行われているが、ローカル紙などの広報活動をやっているが、伸び悩み参加者も20名前後であった。所が今年は読売新聞に載ったせいか、都内近郊からの参加者もあり、普段の倍、約40名の申し込みがあり、三大新聞の広報力の強さを改めて、思い知らされた。
揃いのユニフォームにヘッドマイクを装着し、携帯スピーカを肩から下げ、あれもこれも、読む暇もないのに、いざと言うときの保険のための資料をデイーバックにぶち込み、両手には当日のスケジュール表と案内メモを握りしめる、重い武装姿で、高幡不動に参上する。
40名の集団を一気に案内すると、固まりが生まれ狭い歩行路に一般者に迷惑をかけることから、20名単位に分け、2組の単位で移動した。但し、その移動も、歩行速度が軍隊の如く、一定ではないため、どうしても長い行列が生まれてくる。そんな固まりを上手く誘導しながら、安全に決められ時間の中で、移動する事の難しさを痛切に感じる。
そんな道案内人も、浅川護岸歩きは、見通しも効き、先ず道に迷う事はない。しかし、モノレールの東側は、石田寺、とうかんの森歳三の生誕地は住宅地で、道も昔のままで入り組み、行き止まりもあったり複雑ではあるが、「ああ、間違えてしまった」などは絶対許せない。
さあ、そんな中でのご案内であるが、月1回の建物案内は繰り返しの効果で鈍化した頭でも体に染み込んでおり、言葉や、嘉永、文久など西暦年もあわせ年号は滑らかに出てくるが、年に1、2度の市内案内は中々出てこない。
この日のためにと思い、学生時代の期末試験にふともどって、万端準備したが、衆目の目の前では緊張の余り、言葉が出て来ない。
当日は某国の首相も外交上の要人と会談する折りは官僚の準備したメモを一時も離さず活用していたが、それを真似するわけでは無いが言葉やデータの誤りは是れ又許されず、恥も外聞もなくメモはしっかり離さず活用した。
さあそんな中でスタートは挨拶を踏まえ、全体一括で碑の前で、新政府が「朝敵となった人の祭紀、慰霊を許す」とのくだりからマイクを通して、建立まで14年の歳月がかかった戊辰の怨念をと演説をぶったが果たしてどの程度伝わったか、聞く側の表情を伺う間もなく、目線はメモから離れられなかった。
悪い事に碑の隣には、出店の流すスピーカからラジオの雑音もいやがおうでも入ってくる、ざわついた中での滑り出しであった。
反応を確認する余裕もなく、隊列はスタートした。
ふれあい橋で遥か離れてしまった高幡山を振り返り、もうあんなに小さくなった五重の塔の姿を確認し、感嘆の声もあがる。
戊辰の戦いで勝沼戦争で破れ、高島藩の先導で新政府軍が日野宿に厳しい探索の手が入り、あのこんもりした高幡山も隠れ場所になった説明に頷いていた。
土方資料館に到着、この長い行列を予定通りの時間で案内出来た事に先ずは一安心。
さ~て、問題はモノレールの向こう側、いよいよ迷路の石田地区へ
北川原公園で階段に登り、多摩川と浅川の合流点にあたるこの付近は出水も多い。
弘化3年(1865)記録的な大雨で歳三の家の土蔵の一つが流され、母屋も時間の問題と村中総出で現在の家に移築した事実を更に大雨で渡し船が川留めとなり、溜まった人と物を満載し、出船した船が転覆 30とも、50名とも言われる溺死者が遥か川崎まで流された悲惨な事故もあったこと。現代でも河川敷のねぐらを襲撃、ヘリコプターで助け出される事実も記憶に新しい暴れ場所である。
後は石田寺に到着。歳三の引き墓で手を合わせ、既に薄暗くなった時間になってしまった。六地蔵の前で輪廻転生から守ってもらい拙い説明に最後まで耳傾けていただき、お別れの挨拶、拍手を頂き、感動の一時であった。
11時に家を出て、殆ど歩き詰め、18時に我が家に倒れ混むように到着、刺激的な1日は終わった。
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