大きなうねりを伴い奥多摩を源流とし、東京、神奈川を縦断し、東京湾に注がれる多摩川を一跨ぎで対岸の拝島側に渡る。
この多摩川橋梁で八高線始まって以来の大きな事故がで発生した。犠牲者の霊を悼む展示物が当時の惨状を伝えている。
■車窓からの多摩川
左側に「多摩川」の看板、小宮を出た八高線は多摩川を渡ろうと多摩川に差しかかる。
専用軌道は土手の上を走り、橋をイメージする工作物がないため、運転席からいま正に橋を渡ろうとする実感が沸かない。右手に転落注意の警告表示にいよいよ橋にかかる。
橋上に出る。
。
右側に保線用の通路と橋の縁に腰の高さ程に手すりがある柵が、作業員の落下を防いでいる。
廻りに遮るものはなにもなく、橋上ではもろに風を受ける。僅かな保線路の近くに車両の通過は風圧がかかるが、通過する間、欄干で退避する
その通過車両を川面から見上げると、かなり高い位置に走っていることが判る。
■橋上で悲惨な事故
昭和20年(1945)8月24日 八高線(単線運転)は上下線共、蒸気機関車で牽引された5両編成の客車は多摩川鉄橋上に差しかかる。同鉄橋上の第7,8橋脚付近で正面衝突する。機関車と機関車は重なりあう形で制止する。
上下列車の先頭車両である1両目の車体は粉砕され、河中に落下し、後続の二両目が馬乗りの形で乗り上げる。
確認された死者は104人であるが、多摩川に落ち、遠く東京湾へ流された行方不明者が20数人以上居たと言われている。
◇何故、事故が生れたか
事故当日は台風により八王子ー小宮ー拝島に繋がる電話線が切れ、通信が途絶し孤立してしまう。併せて通票閉塞器が使えなかった。人の判断で、列車運転の「所定の順序」を伝え運行使用としたが、機関車の不具合から途中で変更となった。
その変更意図が片側に伝わらず、両車両が正面衝突する最悪の事態に発生してしまう。
◇後世に伝える車輪
鉄橋付近から発見された事故車両の2対の車軸は当時の事故を物語る記念品として、鉄橋付近にモニュメントとして展示された。
2004年、事故後約60年経過しようやく常設展示され、此処で起きた大惨事を語り継げる生き証人として、その役割を担っている。
橋脚下には台風で濁流が渦巻き、専用の歩道や、手すりもなく、激しい烈風の中、連絡役の鉄道員は身をかがめて四つん這いになって、枕木を頼りに一歩一歩捕まり、拝島側に 向かった。拝島駅で大役を終え、ほっとしながら再びこの橋を今度は機関車に乗って小宮側へ戻ってきたが、事故に会い殉職してしまった一人であった。
台風、装備品の故障、電話の不通、連絡指示が的確に繋がらなかったヒューマンエラーが、重なり大きな事故になってしまった。昨今、西では過速で曲がり切れず、北では整備不良で何れも脱線事故。何れもヒューマンが絡んでいる。
事故の様子はこんな形で伝えている。
八高線列車 衝突事故
この多摩川橋梁で八高線始まって以来の大きな事故がで発生した。犠牲者の霊を悼む展示物が当時の惨状を伝えている。
■車窓からの多摩川
左側に「多摩川」の看板、小宮を出た八高線は多摩川を渡ろうと多摩川に差しかかる。
専用軌道は土手の上を走り、橋をイメージする工作物がないため、運転席からいま正に橋を渡ろうとする実感が沸かない。右手に転落注意の警告表示にいよいよ橋にかかる。
橋上に出る。
。
右側に保線用の通路と橋の縁に腰の高さ程に手すりがある柵が、作業員の落下を防いでいる。
廻りに遮るものはなにもなく、橋上ではもろに風を受ける。僅かな保線路の近くに車両の通過は風圧がかかるが、通過する間、欄干で退避する
その通過車両を川面から見上げると、かなり高い位置に走っていることが判る。
■橋上で悲惨な事故
昭和20年(1945)8月24日 八高線(単線運転)は上下線共、蒸気機関車で牽引された5両編成の客車は多摩川鉄橋上に差しかかる。同鉄橋上の第7,8橋脚付近で正面衝突する。機関車と機関車は重なりあう形で制止する。
上下列車の先頭車両である1両目の車体は粉砕され、河中に落下し、後続の二両目が馬乗りの形で乗り上げる。
確認された死者は104人であるが、多摩川に落ち、遠く東京湾へ流された行方不明者が20数人以上居たと言われている。
◇何故、事故が生れたか
事故当日は台風により八王子ー小宮ー拝島に繋がる電話線が切れ、通信が途絶し孤立してしまう。併せて通票閉塞器が使えなかった。人の判断で、列車運転の「所定の順序」を伝え運行使用としたが、機関車の不具合から途中で変更となった。
その変更意図が片側に伝わらず、両車両が正面衝突する最悪の事態に発生してしまう。
◇後世に伝える車輪
鉄橋付近から発見された事故車両の2対の車軸は当時の事故を物語る記念品として、鉄橋付近にモニュメントとして展示された。
2004年、事故後約60年経過しようやく常設展示され、此処で起きた大惨事を語り継げる生き証人として、その役割を担っている。
橋脚下には台風で濁流が渦巻き、専用の歩道や、手すりもなく、激しい烈風の中、連絡役の鉄道員は身をかがめて四つん這いになって、枕木を頼りに一歩一歩捕まり、拝島側に 向かった。拝島駅で大役を終え、ほっとしながら再びこの橋を今度は機関車に乗って小宮側へ戻ってきたが、事故に会い殉職してしまった一人であった。
台風、装備品の故障、電話の不通、連絡指示が的確に繋がらなかったヒューマンエラーが、重なり大きな事故になってしまった。昨今、西では過速で曲がり切れず、北では整備不良で何れも脱線事故。何れもヒューマンが絡んでいる。
事故の様子はこんな形で伝えている。
八高線列車 衝突事故
それでハチ公にはバトンを持っている電車が通行してよいというリレーバトン式の場所があったのでしょうか?
ちょっぴりうろ覚えですが。。。
先日の台風。
同学区の三沢でがけ崩れがあったし
本日も雨。
まだまだ気の抜けない短い秋ですね。