★ネットサーフィンをしていて、「文字鏡研究会報」というHPにたどり着き、次々と読むうちに秦恒平氏の「漢字のある暮らし」なる一文に出会って事のほか面白く読ませていただいた。氏が教える東工大の学生に授業で課した問題についてのお話である。紹介したい。
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☆ 秦恒平「漢字のある暮らし」より転載
知っている人は、だれでも知っているが、若い学生、それも現代の理工系の学生だとほとんど知らない。鈴木六林男さんは経歴久しい立派な俳人である。その代表作の一つである句の、漢字一字を虫食いにして挙げてみた。
( )品あり岩波文庫『阿部一族』 鈴木六林男
はなから、これは原作どおりの正解の出てこない出題と、はらをくくっていた。第一に『阿部一族』を読んだ学生がすくないだろう。森鴎外の名作と知っていれば、それでよしとしなければならない。そう思っていた。
びっくりするほど大勢が「気品あり」と入れてきた。「名品」「一品」「逸品」「上品」「佳品」などと続いた。「作品」もあった。いやいや「新品」「欠品」「備品」「返品」「残品」もあった。それどころか、「粗品」も「手品」もあった。書店のキャッチ・コピーとして一句を読んだ例がけっこうあった。鴎外作品と知らず、熊本の細川藩での殉死と反乱の事件とも知らずに、逆に大河ドラマ「炎立つ」奥州の安倍氏を描いた原作だという答えも、何人も混じっていた。
気品も名品も、じつは『阿部一族』だから出てきた言葉ではなかった。「岩波文庫」だから多分という推測が多かった。昨今のいわゆる「文庫本」の低調を知り、岩波文庫の選書にかけた厳格なものさしを、学生たちが、けっこう高く評価している事実が、はからずもこんなふうに現れていたのが面白かった。考えさせられた。
それでも鈴木さんの原作の文字は、まるで別のものであった。原作は「遺品あり」なのである。戦地に赴いて武運つたなく異国の戦場に果てた若い戦友の「遺品」に、ただ一冊の岩波文庫『阿部一族』があった。ただそれだけのたった十二字。無季の俳句の代表作であり、戦記文学としても煮詰められた最高の作である。「殉死」という非道の道義を痛切に剔った鴎外の原作を読みかえして見れば、この句の哀切な批評の迫力魅力はさらに倍加するだろう。
事実「虫食い」を埋めるのには、ま、惨敗した学生諸君の多くが、どの文庫本でかは知らないが『阿部一族』を読んでくれた。「胸が石のように固くなりました」とメッセージをくれた者もいた。気品ある名品は、実際に読んでもらえば講釈の手間の多くが省けるのである。『阿部一族』一冊を「遺品」に戦死した若者の無念は、きっと学生諸君の胸の深くに届いたことと思う。
団子坂上り下りや鷗外忌 高浜虚子
すぐ飽きる医書をひもとき鷗外忌 高橋泰城
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☆ 秦恒平「漢字のある暮らし」より転載
知っている人は、だれでも知っているが、若い学生、それも現代の理工系の学生だとほとんど知らない。鈴木六林男さんは経歴久しい立派な俳人である。その代表作の一つである句の、漢字一字を虫食いにして挙げてみた。
( )品あり岩波文庫『阿部一族』 鈴木六林男
はなから、これは原作どおりの正解の出てこない出題と、はらをくくっていた。第一に『阿部一族』を読んだ学生がすくないだろう。森鴎外の名作と知っていれば、それでよしとしなければならない。そう思っていた。
びっくりするほど大勢が「気品あり」と入れてきた。「名品」「一品」「逸品」「上品」「佳品」などと続いた。「作品」もあった。いやいや「新品」「欠品」「備品」「返品」「残品」もあった。それどころか、「粗品」も「手品」もあった。書店のキャッチ・コピーとして一句を読んだ例がけっこうあった。鴎外作品と知らず、熊本の細川藩での殉死と反乱の事件とも知らずに、逆に大河ドラマ「炎立つ」奥州の安倍氏を描いた原作だという答えも、何人も混じっていた。
気品も名品も、じつは『阿部一族』だから出てきた言葉ではなかった。「岩波文庫」だから多分という推測が多かった。昨今のいわゆる「文庫本」の低調を知り、岩波文庫の選書にかけた厳格なものさしを、学生たちが、けっこう高く評価している事実が、はからずもこんなふうに現れていたのが面白かった。考えさせられた。
それでも鈴木さんの原作の文字は、まるで別のものであった。原作は「遺品あり」なのである。戦地に赴いて武運つたなく異国の戦場に果てた若い戦友の「遺品」に、ただ一冊の岩波文庫『阿部一族』があった。ただそれだけのたった十二字。無季の俳句の代表作であり、戦記文学としても煮詰められた最高の作である。「殉死」という非道の道義を痛切に剔った鴎外の原作を読みかえして見れば、この句の哀切な批評の迫力魅力はさらに倍加するだろう。
事実「虫食い」を埋めるのには、ま、惨敗した学生諸君の多くが、どの文庫本でかは知らないが『阿部一族』を読んでくれた。「胸が石のように固くなりました」とメッセージをくれた者もいた。気品ある名品は、実際に読んでもらえば講釈の手間の多くが省けるのである。『阿部一族』一冊を「遺品」に戦死した若者の無念は、きっと学生諸君の胸の深くに届いたことと思う。
団子坂上り下りや鷗外忌 高浜虚子
すぐ飽きる医書をひもとき鷗外忌 高橋泰城