私は、荻原裕幸先生の句は、季語をどうずらしているのか?
という観点で読んでいます。
バス停に空のバス来る二月尽
二月尽という季語は、春。
束の間のかげろふ立てば二月尽 森澄雄
この句は、季語に素直に詠んでいます。
バス停の句は、どうでしょうか?
自然のなかではなく、都会のなかに春がやってきた感じを
捉えようとしているのではないでしょうか?
満員ではなく、誰もまだ乗っていないバス。
始発でしょうか?
そこに早春の景を見つけた句だと読みました。
紅き梅見に来て白き梅を見る
白梅や力を抜いて立つてゐる
春浅きからだを夜のポストまで
春めくや受話器を顎にはさむ人
他の句も季語が、歳時記にある句と、どうずれているのか?
そのあたりを楽しんで下さい。
ずれてはいても、なんとなく納得できるように感じます。
最初の空のバスの句は、からっぽのバスなのですが、
私は、ソラから降りてきたバスと誤読して一句。
からっぽの青空という春のバス 遅
という観点で読んでいます。
バス停に空のバス来る二月尽
二月尽という季語は、春。
束の間のかげろふ立てば二月尽 森澄雄
この句は、季語に素直に詠んでいます。
バス停の句は、どうでしょうか?
自然のなかではなく、都会のなかに春がやってきた感じを
捉えようとしているのではないでしょうか?
満員ではなく、誰もまだ乗っていないバス。
始発でしょうか?
そこに早春の景を見つけた句だと読みました。
紅き梅見に来て白き梅を見る
白梅や力を抜いて立つてゐる
春浅きからだを夜のポストまで
春めくや受話器を顎にはさむ人
他の句も季語が、歳時記にある句と、どうずれているのか?
そのあたりを楽しんで下さい。
ずれてはいても、なんとなく納得できるように感じます。
最初の空のバスの句は、からっぽのバスなのですが、
私は、ソラから降りてきたバスと誤読して一句。
からっぽの青空という春のバス 遅