先日、レンゲの花を見かけました。
以前は畑一杯のレンゲ草でしたが、
最近はさみしくなりました。
さて、俳句教室。
前回の宿題は、「春の夜」と「春の夕焼」でした。
生きている眼つむれる春の夜
主語が、「私」とも、「生あるもの全て」、とも両方に解釈が出来る。
生きとし生けるものが主語だと、面白いけれど、
この表現では曖昧な部分が残る。
この句は主語を私とした方がすっきりする。
その場合は、
生きている眼をつむる春の夜
と散文的な表現にした方が良い。
当たり前なことを過剰な表現によって際立たせるのはテクニックの一つ。
生きている眼と、いう言い方は成功している。
まわれ右して正面の春夕焼(はるゆやけ)
振り返ってみたら春の夕焼けだった、というだけのことを言っている。
この当たり前の言い方が季語を際立たせて、一句として成立している。
まわれ右して正面の、が、これまで、あることに
背を向けてきたことを止め、正面きって向かい合うという、
一つの人のあり方を連想させる点も上手く行っている。
今回は及第点をいただきました。
次回は5月7日、宿題は「五月」と「葉桜」です。