海幸山幸神話を題材にして描かれた「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)絵巻」を
取り上げる前に、ここで、しばらく神話の話から離れて、この絵巻物の伝来について
触れておきます。
かって、日本を代表する三種類の絵巻が若狭の地にありました。この事実は室町時代
(15世紀)に皇族の方が書いた日記の中に見られます。
伏見宮貞成(ふしみのみや さだふさ)親王が33年間にわたって書き綴ったものです。
その中の嘉吉(かきつ)元年(1141)4月26日の日誌です。
"若狭の国 松永庄(まつながしょう)の代官からの情報で松永庄新八幡宮に三種類の
絵巻物があることがわかった。「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)絵巻」、
「伴大納言(ばんだいなごん)絵巻」、「吉備大臣入唐(きびのおとどにっとう)絵巻」
である。これらの絵巻物を借り受けられたのは喜ばしいことだ。早速、宮中に参上して
後花園天皇にお見せしょう。」(筆者 意訳)
貞成親王は当時、若狭松永庄の領主でもありました。
この時、後花園天皇のまだ13歳だったそうです。実は、貞成親王と後花園天皇は親子の
関係にありました。絵巻物好きの我が子のために連日、せっせと各地から絵巻物の名品を
借りてきて、宮中に運んだことが日記に書かれています。
もともと、この三種類の絵巻物は後白河天皇の意を受け、平安時代末期(12世紀後半) に
作られたものです。絵師は常盤光長(ときわみつなが) と云われていますが、
その履歴ははっきりしていません。
三種類の絵巻物は蓮華王院(三十三間堂)に収められていましたが、後白河天皇の他界後、
管理が疎かになったようで、その後の消息は貞成親王の日記に出てくるまでは謎に
包まれたままです。
若狭の松永庄新八幡宮にあつたことは事実ですが、新八幡宮が松永庄のどこにあった
のか、その旧跡すら、はっきりしていません。
古代から中世にかけて、若狭の中心地は遠敷(おにゅう)と、松永のふたつの地区で、
遠敷には若狭彦姫神社。松永には真言宗の古刹(こさつ)、明通寺(みょうつうじ)が
あります。
小松茂美氏は「鎌倉時代、若狭松永庄の領主だった皇族が彦火火出見尊絵巻など
三種類の絵巻物を霊験あらたかな若狭彦神社の神宝として寄進したのではないか。
しかし、打ち続く戦乱の世に不安をいだいた若狭彦神社では、密かに、新八幡宮の
神庫に移したのではないか。」と推測しています。(続く)