私の高校時代の友人、永田敏雄氏によれば、江戸時代、京都で名医と謳われた
高森正因 (たかもり まさよし) の子孫が若狭小浜藩の招きで藩医として、
小浜に移り、その高森家へ永田氏の母の妹さんが嫁いでいるというのです。
司馬遼太郎が「街道をゆく」のなかで、高森某と言っているように、高森正因に
ついて調べ始めたものの資料が殆どなく、彼は想像力を働かせて小説風に
仕立てたのだという。ただ、高森家の家系図が残っていて、これが一番の
手掛かりになったようです。
永田氏によると、高森正因は妻を娶らなかったため実子はなく、姉の子を養子に
貰い受けて高森家を継がせています。その子、つまり正因の孫に当たる案立
(あんりつ) が寛保3年(1743) に初代の若狭小浜藩の藩医として、召し抱えられ、
明治2年 (1869) までの五代に至る126年間、藩医の系譜が続きました。
永田氏から教えてもらった僅かな資料「近世畸人伝・伴高蹊 著」や彼の著書
「法眼 高森正因」を参考に断片的ながら、高森正因の履歴を作ってみました。
〇 高森正因の先祖は肥後国 (熊本県)の阿蘇大宮司三家(阿蘇、村山、高森)と
云われた。
〇 「近世畸人伝」では、高森正因は紀伊の国(和歌山県)で、江戸時代の寛永
17年(1640) に生まれた、と出ているが、永田氏は肥後国で生まれ、父が
病死して、母と妹2人と、祖父のいる紀伊の国へ移り住んだとしている。
〇 正因は紀伊の国の藩医だった祖父のもとで漢方医学を学ぶ。
〇 京都に出て、伏見街道で病院を開き、評判となり、名医と謳われた。
〇 延宝7年(1679)、正因39歳の時、12歳頃の雨森芳洲が訪ねてきて、医者の
教えてを乞う。
〇 正因47歳の時、幕府医官の最高位である法眼(ほうげん) を賜った。
〇 和歌をよくし、詠歌20首を霊元天皇に献じ、「東蘭亭」の号を賜った。
〇 享保2年(1717)、76歳で亡くなった。
さて、司馬遼太郎の「街道をゆく〜壱岐・対馬の道〜」に戻りますが、江戸中期の
対馬藩の儒者、雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)の記述の中で『芳洲は少年のころ
医者になろうとして、伊勢の名医 高森某という師匠についた。」と、あります。
しかし、正因は伊勢の名医ではなく京(または熊本)の名医で、伊勢の名医と
いう記述は誤りであることがわかって頂けたと思います。
もっとも、「街道をゆく」の流れの中では、高森某で十分で、いちいち詮索する
必要はないかもしれません。
司馬遼太郎の場合、芳洲が住んでいた今の対馬市厳原(いずはら)を訪れた旅の中で
朝鮮外交を担う役職を勤め、朝鮮通信使の外交官として活躍したその人物像に
スポットを当てて、司馬史観を述べることに重点が置かれているわけですから。
しかし、雨森芳洲の生誕地、滋賀県長浜市高月の雨森芳洲庵で見た芳洲の略年譜にも
「芳洲12 歳の頃、伊勢の名医 高森氏に医術を学ぶ」とあるのは、矢張り訂正して
「京の名医」とするべきだと思います。
写真は障害のある息子、健の「落書き帳」より