575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

美酒を詠む

2020年09月13日 | Weblog


松永貞徳<まつながていとく>江戸時代前期の
俳人であり歌人。母は冷泉「藤原惺窩」<ふじ
わらせいか>の姉。冷泉<れいぜい>家といえば
冷泉流歌道の家元です。そのため、貞徳は幼少
より連歌や歌学に親しみ細川幽斎に師事してい
たこともあります。この幽斎との繋がりで豊臣
秀吉の秘書となり、戦国の名だたる武将たちに
名が知られるようになります。

「皆人の 昼寝の種や 秋の月」<貞徳>

貞徳は、南北朝時代に分かれた下冷泉家に属し、
現在の冷泉家は、京都御所の北面にある同志社
大学より至近。和歌などの古文書は数万点とい
われ「冷泉家時雨文庫」として公家文化の研究
がおこなわれています。

話を戻します。貞徳は、俳諧は連歌や和歌を学
ぶための手段と考えていたようです。しかし、
俗っぽく親しみやすいため、俳諧を独立させ楽
しむ人々が現れます。

上記の貞門派と並ぶのが「西山宗因」<にしや
まそういん>の「談林派」です。宗因は、加藤
清正の家臣に側近として仕えていましたが、主
家の都合で浪人となり、大阪天満宮の連歌所の
宗主となります。この頃から、本格的に俳諧を
詠むようになり、やがて、井原西鶴とともに談
林派を代表する上方の人気俳諧師となります。

「世の中よ 蝶々とまれ かくもあれ」<宗因>

句意は「ケセラ・セラ」世の中などなるように
しかならない、蝶々のようにふわふわと浮かれ
楽しもう。厳しい庶民の生活を前向きに捉えた
明るさが人気を博したのかもしれません。

俳諧は、室町時代より続く連歌に滑稽な部分を
設け、場の緊張を解き笑いを生み出すことが目
的でした。つまり、俳諧には通俗的な滑稽感が
必要。この低俗な俳諧を文芸作品の域にまで高
めたのが松尾芭蕉です。

芭蕉は、生涯で982の俳句を残しています。し
かし、最大の功績は、連歌では添え物でしかな
かった俳諧を、上質な美酒にまで蒸留させたこ
とではないでしょうか。

写真と文<殿>
コメント
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