
【原文】
おもしろきところに船を寄せて、「ここやいどこ」と、問ひければ、「土佐(とさ)の泊(とまり)」といひけり。昔、土佐といひけるところに住みける女、この船にまじれりけり。そがいひけらく、「昔、しばしありしところのなくひにぞあなる。あはれ」といひて、詠める歌、
年ごろを住しところの名にし負へば来寄(きよ)る波をもあはれとぞ見る
とぞいへる。
【現代語訳】
景色のいいところに船を寄せて、「ここはどこ」と聞くと、土佐の港ですと言う。 昔、土佐という所に住んでいた女が、同船していた。その人が言うには、「昔、私がしばらく住んでいた所と名の通う所です。懐かしいこと。」と言って、よんだ歌は、 年ごろを住し… (ここは以前何年も住んだ所と同じ名を持っているから(懐かしくて)寄せてくる波さえもしみじみとした思いでみることだ) と言ったのである。 |
◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。