七福神は室町時代の末期頃、農民や漁民の民間信仰として成立しました。
七福は「仁王経」の七難七福という言葉が語源とされ、七つの福徳をそれぞれの神に配しています。
大黒天(財福と徳望を象徴)、毘沙門天(威厳を象徴)、弁才天(愛敬を象徴)は仏教から、寿老人(長寿と健康を象徴)、福禄寿(福禄寿を象徴)、布袋(大量を象徴)は中国道教、恵比寿神(清廉と繁盛を象徴)が神道から来ています。
七福神信仰は江戸時代に盛んとなり、七福神詣、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いたり、床の間に飾ったり、商売繁盛の縁起物としても喜ばれるようになりました。
私が東京での単身赴任時代に巡った七福神を紹介していきます。
第二陣は「柴又七福神」です。
・名称 柴又七福神
・寺社名 医王寺

・七福神 恵比寿天
・所在地 東京都葛飾区柴又5-13-6 地図
・最寄駅 京成金町線柴又駅
・参拝日 1998(平成10年)/01/10
・コメント
当山は山号を薬王山、院号を瑠璃光院、そして寺号を医王寺と称する。
現在の宗旨は、真言宗豊山派。本山は奈良県桜井市の『長谷寺』。
建立は応永十四年(1407)で、仁和寺の観見(かんけん)によるという伝がある。本尊は薬師如来。当時流行した赤目病平癒の祈願所として建立された旨の当山二十五世博道による覚え書きがある。
建立後間もなく、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川放水路)を挟んで対峙し、当山は北條方の陣屋として使用されたため、什物の大部分が失われたが、天文七年(室町戦国時代)源珍(げんしん)により中興された。
しかし、源珍没後はふたたび長期にわたって無住(住職のいない空き寺)となった期間が多かったため、多くの資料が散逸した。
七福神のなかの唯一の日本起源の神であり、もともと航海安全と漁業の神であったが、中世から近世にかけて商売繁盛の神として信仰されるようになった。
この恵比寿天は中興祖 源珍僧都が当山に安置した。
源珍が行脚中、礼拝供養の修行後蕎麦練りを作らんと渓流に立ち入った際砂金を見出したとの逸話から、昭和の初期から中期には多くの蕎麦店から篤い信仰を集めた。

・マップ 柴又七福神
七福は「仁王経」の七難七福という言葉が語源とされ、七つの福徳をそれぞれの神に配しています。
大黒天(財福と徳望を象徴)、毘沙門天(威厳を象徴)、弁才天(愛敬を象徴)は仏教から、寿老人(長寿と健康を象徴)、福禄寿(福禄寿を象徴)、布袋(大量を象徴)は中国道教、恵比寿神(清廉と繁盛を象徴)が神道から来ています。
七福神信仰は江戸時代に盛んとなり、七福神詣、宝船に乗った七福神の絵を枕の下に敷いたり、床の間に飾ったり、商売繁盛の縁起物としても喜ばれるようになりました。
私が東京での単身赴任時代に巡った七福神を紹介していきます。
第二陣は「柴又七福神」です。
・名称 柴又七福神
・寺社名 医王寺

・七福神 恵比寿天
・所在地 東京都葛飾区柴又5-13-6 地図
・最寄駅 京成金町線柴又駅
・参拝日 1998(平成10年)/01/10
・コメント
当山は山号を薬王山、院号を瑠璃光院、そして寺号を医王寺と称する。
現在の宗旨は、真言宗豊山派。本山は奈良県桜井市の『長谷寺』。
建立は応永十四年(1407)で、仁和寺の観見(かんけん)によるという伝がある。本尊は薬師如来。当時流行した赤目病平癒の祈願所として建立された旨の当山二十五世博道による覚え書きがある。
建立後間もなく、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川放水路)を挟んで対峙し、当山は北條方の陣屋として使用されたため、什物の大部分が失われたが、天文七年(室町戦国時代)源珍(げんしん)により中興された。
しかし、源珍没後はふたたび長期にわたって無住(住職のいない空き寺)となった期間が多かったため、多くの資料が散逸した。
七福神のなかの唯一の日本起源の神であり、もともと航海安全と漁業の神であったが、中世から近世にかけて商売繁盛の神として信仰されるようになった。
この恵比寿天は中興祖 源珍僧都が当山に安置した。
源珍が行脚中、礼拝供養の修行後蕎麦練りを作らんと渓流に立ち入った際砂金を見出したとの逸話から、昭和の初期から中期には多くの蕎麦店から篤い信仰を集めた。


・マップ 柴又七福神