9・大磯(虎ヶ雨)
平塚から三粁。大磯の画題は「虎ヶ雨」とある。この雨の図は東海道絵中でも佳作の内に数えられている。空は鼠色にくもって、大粒の雨が降っている。大磯宿へ入る手前、合羽を被った旅人が馬の背でいく、野良帰りの百姓、傘をさした町の人など、雨の下街道も濡れてなにか寂しい。左手田圃の先は海岸で磯馴松、そしてその向こうに開けている相模灘。水平線近くが白く明るく見えるのも、よく海岸で見る実感である。この絵では、この沖の方の明るさが焦点であって、それにひきかえてこのあたりは雨雲の下でうす暗い。このあたりの海岸は、すでに「万葉集」にも詠われて、「よろぎの浜」「古今集」とも呼ばれ、「こゆるぎの磯」ともいわれていた。またこの辺りを鴫立浜とも呼ばれ、西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立浜の秋の夕暮」は「三夕の和歌」の一つとして有名である。そしてここは小磯とも呼ばれ、西行庵もこのあたりに遺跡となっている。また大磯は、歌舞伎で正月の吉例狂言といわれている曾我の狂言でよく知られている。それは曾我の十郎の恋人、虎は大磯の廓の遊女であったが、敵討のため二人は別れることとなり、その涙雨を「虎ヶ雨」というのである。この実説は不明であるが、それもこの土地にからまる伝説の情趣といていいであろう。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平塚から三粁。大磯の画題は「虎ヶ雨」とある。この雨の図は東海道絵中でも佳作の内に数えられている。空は鼠色にくもって、大粒の雨が降っている。大磯宿へ入る手前、合羽を被った旅人が馬の背でいく、野良帰りの百姓、傘をさした町の人など、雨の下街道も濡れてなにか寂しい。左手田圃の先は海岸で磯馴松、そしてその向こうに開けている相模灘。水平線近くが白く明るく見えるのも、よく海岸で見る実感である。この絵では、この沖の方の明るさが焦点であって、それにひきかえてこのあたりは雨雲の下でうす暗い。このあたりの海岸は、すでに「万葉集」にも詠われて、「よろぎの浜」「古今集」とも呼ばれ、「こゆるぎの磯」ともいわれていた。またこの辺りを鴫立浜とも呼ばれ、西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立浜の秋の夕暮」は「三夕の和歌」の一つとして有名である。そしてここは小磯とも呼ばれ、西行庵もこのあたりに遺跡となっている。また大磯は、歌舞伎で正月の吉例狂言といわれている曾我の狂言でよく知られている。それは曾我の十郎の恋人、虎は大磯の廓の遊女であったが、敵討のため二人は別れることとなり、その涙雨を「虎ヶ雨」というのである。この実説は不明であるが、それもこの土地にからまる伝説の情趣といていいであろう。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』