7・藤沢(遊行寺)
戸塚から七.三粁。この絵の画題は「遊行寺」で正面丘の上に描かれているのが遊行寺であるが、街道は、この寺の前を通ってこの鳥居のところにくる。この鳥居は、江の島弁天への道の入口を示している。したがってここは江の島詔の道との岐れ道となっている。この辺を砥上原という。
寺の門前町の家並から橋を渡って往還はかなり賑わっている。大山詔などの東海道の旅人、江の島詔の人々、数人の盲人の旅姿も面白く、これは江の島詔に向かうのであろう。霞を隔てて遊行寺の森が描かれ、堂字が近景を圧する描き方は殊更に名刹遊行寺をこの土地の名所としたものと思われる。巧みな構図である。
遊行寺は、時宗の総本山で、一遍上人の四世、僧呑海が正中二年(1325)に開いた寺で、藤沢山清浄光寺が本名である。遊行寺という名は、寺主は代々遊行、即ち諸国を行脚したので世に遊行上人と呼ばれ、またこの寺を遊行寺と読んだのである。東海道中有数の有名な寺院で、よく知られた境内の大銀杏は今である。参詣の人も絶えず、庶人の信仰をあつめていた。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸塚から七.三粁。この絵の画題は「遊行寺」で正面丘の上に描かれているのが遊行寺であるが、街道は、この寺の前を通ってこの鳥居のところにくる。この鳥居は、江の島弁天への道の入口を示している。したがってここは江の島詔の道との岐れ道となっている。この辺を砥上原という。
寺の門前町の家並から橋を渡って往還はかなり賑わっている。大山詔などの東海道の旅人、江の島詔の人々、数人の盲人の旅姿も面白く、これは江の島詔に向かうのであろう。霞を隔てて遊行寺の森が描かれ、堂字が近景を圧する描き方は殊更に名刹遊行寺をこの土地の名所としたものと思われる。巧みな構図である。
遊行寺は、時宗の総本山で、一遍上人の四世、僧呑海が正中二年(1325)に開いた寺で、藤沢山清浄光寺が本名である。遊行寺という名は、寺主は代々遊行、即ち諸国を行脚したので世に遊行上人と呼ばれ、またこの寺を遊行寺と読んだのである。東海道中有数の有名な寺院で、よく知られた境内の大銀杏は今である。参詣の人も絶えず、庶人の信仰をあつめていた。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』