10・小田原(酒匂川)
大磯から箱根の東麓小田原までは十六粁である。画題に「酒匂川」とある通り、小田原宿へ入るまえ、この川にかかる。橋はなく徒歩、肩車または蓮台で渡る。東海道にはいくつかの天然の難所はあるが、関所、橋のない川も道中にとっては一つの難所であったといえよう。しかしこれがまた、今日見ると旅の興趣をそそる面白さでもある。この絵で広重は酒匂川の川渡りの有様を俯瞰的に描いて、ひろびろとした大景観を見せている。正面には遠く駒ヶ岳をはじめ箱根の連山、その下に小田原城と宿場町の人家の屋根を望み、近景は川渡しの風景である。いま、おそらく大名の一行の渡河であろう。駕篭を蓮台にのせ、大勢の人足が任ぎ渡っている。また此方へ渡る旅人もいる。裸の川人足が川の向こうにたむろしている。こうした豆粒のような人物の小ささと、行手に連なる箱根の山の姿に自然と人力の対照が感じられるのも興味がある。昼下がりの時刻でもあろうか、遠山は逆光線で藍色に模湖とし、近い山波ほど色濃く、山ひだの描写には三角形の集積など幾分の洋画風の色彩を試みているのも、広重の若さと意欲と思われる。
この図には異版が数種ある。広重の研究か故内田実氏は、初版といわれるもの以外はすべて広重作ではなく他の絵師の改竄であると断じているが一概にきめることには問題がある。川の手前の人物が川人足と三人、旅人が二人となり遠山の形が違っているものなどは、広重作の異版と思われる。
小田原城は、明応四年(1495)北条早雲が居城としてここに定め、箱根の嶮をひかえて関東の守りの地として、その重を守った。東海道の宿場としても、城下町としても繁栄の地であった。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大磯から箱根の東麓小田原までは十六粁である。画題に「酒匂川」とある通り、小田原宿へ入るまえ、この川にかかる。橋はなく徒歩、肩車または蓮台で渡る。東海道にはいくつかの天然の難所はあるが、関所、橋のない川も道中にとっては一つの難所であったといえよう。しかしこれがまた、今日見ると旅の興趣をそそる面白さでもある。この絵で広重は酒匂川の川渡りの有様を俯瞰的に描いて、ひろびろとした大景観を見せている。正面には遠く駒ヶ岳をはじめ箱根の連山、その下に小田原城と宿場町の人家の屋根を望み、近景は川渡しの風景である。いま、おそらく大名の一行の渡河であろう。駕篭を蓮台にのせ、大勢の人足が任ぎ渡っている。また此方へ渡る旅人もいる。裸の川人足が川の向こうにたむろしている。こうした豆粒のような人物の小ささと、行手に連なる箱根の山の姿に自然と人力の対照が感じられるのも興味がある。昼下がりの時刻でもあろうか、遠山は逆光線で藍色に模湖とし、近い山波ほど色濃く、山ひだの描写には三角形の集積など幾分の洋画風の色彩を試みているのも、広重の若さと意欲と思われる。
この図には異版が数種ある。広重の研究か故内田実氏は、初版といわれるもの以外はすべて広重作ではなく他の絵師の改竄であると断じているが一概にきめることには問題がある。川の手前の人物が川人足と三人、旅人が二人となり遠山の形が違っているものなどは、広重作の異版と思われる。
小田原城は、明応四年(1495)北条早雲が居城としてここに定め、箱根の嶮をひかえて関東の守りの地として、その重を守った。東海道の宿場としても、城下町としても繁栄の地であった。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』