27:二世市川門之助の伊達の与作

この絵は、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」で、乳人重の井と恋に落ち、主家の役柄が完全に描かれている点、やはり写楽の佳作の一つである。一見平凡のように見えて、やさ男で意思が弱く、じっと我慢して主家を追われる内面的な役柄が、その風貌にも衣裳の色彩にも表現されていて、写楽の描写力の厚み、奥行きがよく示されている。おどおどしたような眼、悲しみをこらえる口もと、躊躇する右手、これらの描写に切実味がある。また衣裳の色彩が和事師の感じを出している。薄紫の着物に下着が黄と薄紅の二枚重ね。この薄い派手な色の配合が役柄のすべてをあらわしている。
二世市川門之助は、初世門之助の養子で四世市川団十郎の門に入り、弁蔵と称し、明和七年に二世門之助を継いだ。風采にすぐれ、舞台は華やかで人気役者であった。和事を主としたが、評判記に「とかく荒事が好きと見ゆるが、此の人はやはりしっぽりした事がうつりませう」とあるように、しばしば市川流の荒事もつとめた。寛政六年十月、五十二歳で没したが、写楽きその追善の絵(間判二枚絵)を描いている。そしてそれは荒事の暫の絵である。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この絵は、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」で、乳人重の井と恋に落ち、主家の役柄が完全に描かれている点、やはり写楽の佳作の一つである。一見平凡のように見えて、やさ男で意思が弱く、じっと我慢して主家を追われる内面的な役柄が、その風貌にも衣裳の色彩にも表現されていて、写楽の描写力の厚み、奥行きがよく示されている。おどおどしたような眼、悲しみをこらえる口もと、躊躇する右手、これらの描写に切実味がある。また衣裳の色彩が和事師の感じを出している。薄紫の着物に下着が黄と薄紅の二枚重ね。この薄い派手な色の配合が役柄のすべてをあらわしている。
二世市川門之助は、初世門之助の養子で四世市川団十郎の門に入り、弁蔵と称し、明和七年に二世門之助を継いだ。風采にすぐれ、舞台は華やかで人気役者であった。和事を主としたが、評判記に「とかく荒事が好きと見ゆるが、此の人はやはりしっぽりした事がうつりませう」とあるように、しばしば市川流の荒事もつとめた。寛政六年十月、五十二歳で没したが、写楽きその追善の絵(間判二枚絵)を描いている。そしてそれは荒事の暫の絵である。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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