30:中山富三郎の宮城野

この絵について、私はあえて女形を描いた写楽の作品中の最上位におきたい。それほど私にとっては名品である。寛政六年五月の桐座上演の「敵討乗合話」で、親の敵志賀大七を妹のしのぶとともに討つ役、宮城野がこの絵である。中山富三郎は、「ぐにゃ富」と綽名された役者である。舞台上の動作、仕科、口跡などにぐにゃぐにゃした特徴があり、そこに女らしさをあらわして当時人気のあった女形である。その芸風をもつ富三郎という役者が、これほど切実に絵画となって表現されていることは、まことに驚異であり、写楽の偉大さを感ぜずにはいられない作品である。顔面描写にも、肩からの線にしても、左手の上げ方、指の描写にしても、すべて富三郎の芸風、性格を如実に描いているといえる。長い顔、つりあがった眉、小さな眼、しゃくれた頬におちょぼ口、一見不思議さの中になにか華やいだ、なめらかな印象を与えている。そして全体の姿態からゆったりとした雰囲気があって見る人に和やかな気分にさせる。写楽の絵は、人間を描き、その芸風を描き、僅か半身でありながら舞台上の雰囲気までも感じさせるのである。
中山富三郎については「三世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の槌屋梅川」の解説に記してある。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この絵について、私はあえて女形を描いた写楽の作品中の最上位におきたい。それほど私にとっては名品である。寛政六年五月の桐座上演の「敵討乗合話」で、親の敵志賀大七を妹のしのぶとともに討つ役、宮城野がこの絵である。中山富三郎は、「ぐにゃ富」と綽名された役者である。舞台上の動作、仕科、口跡などにぐにゃぐにゃした特徴があり、そこに女らしさをあらわして当時人気のあった女形である。その芸風をもつ富三郎という役者が、これほど切実に絵画となって表現されていることは、まことに驚異であり、写楽の偉大さを感ぜずにはいられない作品である。顔面描写にも、肩からの線にしても、左手の上げ方、指の描写にしても、すべて富三郎の芸風、性格を如実に描いているといえる。長い顔、つりあがった眉、小さな眼、しゃくれた頬におちょぼ口、一見不思議さの中になにか華やいだ、なめらかな印象を与えている。そして全体の姿態からゆったりとした雰囲気があって見る人に和やかな気分にさせる。写楽の絵は、人間を描き、その芸風を描き、僅か半身でありながら舞台上の雰囲気までも感じさせるのである。
中山富三郎については「三世市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の槌屋梅川」の解説に記してある。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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