
【原文】
栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、栂尾の上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候さうらふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。
【現代語訳】
明恵上人が散歩をしていると、小川で男が「脚あし、脚あし」と言って、馬の脚を洗おうとしていた。上人は立ち止まり、「有り難や。現世に降臨した神様でしょうか? 阿字あじ阿字あじと宇宙を創造する言葉を唱えておられます。どのような方のお馬様かお尋ねします。この上なく神聖なことでございます」と言った。男は、「フショウ殿の馬ですよ」と答えた。「なんて嬉しいことでしょう。阿字本不生あじほんふしょう。つまり宇宙は永遠に不滅です。未来への悟りが見えてきました」と言って、感動で流れる涙を拭ったそうだ。
◆鎌倉末期の随筆。吉田兼好著。上下2巻,244段からなる。1317年(文保1)から1331年(元弘1)の間に成立したか。その間,幾つかのまとまった段が少しずつ執筆され,それが編集されて現在見るような形態になったと考えられる。それらを通じて一貫した筋はなく,連歌的ともいうべき配列方法がとられている。形式は《枕草子》を模倣しているが,内容は,作者の見聞談,感想,実用知識,有職の心得など多彩であり,仏教の厭世思想を根底にもち,人生論的色彩を濃くしている。