JR姫路駅を出ると広い大手前通りの向こうに姫路城が真正面に見える。平成の大改修が3月に終わったので一度観に行きたいと思っていた。
弓道部OB有志が年に一度一泊旅行しているが、今年は姫路城を観て塩田温泉に泊まり、翌日書写山円教寺を拝観するツアーだった。
M幹事が前もってガイドさん(ボランテイア)を依頼してくれていたので、城のヒストリーや細部の説明、面白いエピソード
などなどほぼ2時間にわたり楽しい時間を味わうことが出来た。最近は美術館や博物館に行くと、以前は頼まなかった音声ガイドを
借りるようになったが、読めば書いてあることでも人ごみに押されて見逃すこともあるので、音声ガイドのおかげで展示のキモや
見どころを外さなくなった。今回もガイドさんのお蔭で多くの知見を得ることが出来た。
天守閣へ登る何段も何段もある階段は急で、前後に沢山の善男善女が張り付いている中を気を付けながら登った。
姫路城の特徴は西国の強力外様大名に対する徳川幕府の最前線軍事基地であったことだ。城の内部には敵兵が内部まで侵入した場合を想定した武者隠しや、
侵入した敵に発砲する内部に向けた狭間(さま)が作られていることを今回初めて知った。
姫路城は幕府の大政奉還後、これも日本人の手のひら返しの表れの一つだろうが、昨日まで尊重していた大切だったはずのものも、
お上が言えば、一夜明ければそれらを弊履の如く捨て去り「古いのんは打ち壊してまえ」ということで二足三文の値で売りに出された。
しかし、これを買った人も「ぶち壊すには費用が掛かりすぎる」と放置していたらしい。
⇒(明治6年(1873)、明治政府は全国にあった144城に廃棄を通達し、ほとんどが売却・破壊され、姫路城は市内の神戸某にわずか23円50銭(現在の貨幣価値で約10万円)で落札されたがですが、解体費用が捻出できないとかで、時間は流れ、いつのも間にやら陸軍所有となっちょったそうです。
そんな時、芸術的価値が高い美しい城を後世に残したいと明治11年(1878)陸軍省第四局長代理・中村重遠大佐が、陸軍卿・山県有朋に「名古屋城および姫路城の保存を太政官(太政大臣・三条実美)に上申してもらいたい」という内容の意見書を提出し、意見書を本部内で検討した結果、保存される事になるがです。(引用先)
今回もまた、この大規模な軍事施設を完成するためにどれだけの期間、近隣の大量の百姓連中が動員されたのだろうか?
とか、あの巨大な多数の主柱のなどの材木や瓦や石垣の石などどう輸送し、建てていったのだろかとか、またまたこれから
知りたいことが城の石垣のように高くなってしまった。築城は今でいう一大プロジェクトだから、そこに総指揮をとるプロジェクトリーダーがいたはずだ。
彼の配下には土木や建築や輸送のサブプロマネがついて、分担かつ総合して設計と工事施工をやりとげるマネージメントがあった。
プロジェクトリーダーの使命は最短納期で城郭を完成させ、しかも実戦に耐える軍事施設の完成だった。今から400年前にも既に
わが民族には凄腕のプロマネと各分野のすぐれたエンジニア群がいた。このところ偶然ながら一か月以内に熊本城、島原城、姫路城の三城を観て
そんなことを思った。世界史的に見ても、城壁都市はアジア欧州に多々あるが、このような軍事施設としての城郭を作った民族は日本と欧州だけかもしれない。
弓道部の友人服部さんから久しぶりに信州山旅便りがありました。これまでは乗鞍岳や冬の上高地を巡る写真が主でしたが、今回は夏の白馬岳の山旅の画像です。
⇒「白馬大雪渓を歩き出します。快晴です。(大行列になっています)↑トップの画像。お盆の行事(お寺の回向、お墓参り)を終えて、
娘夫婦と3人で14日から17日まで白馬岳に行ってきました。白馬岳は私の100名山踏破の最初の山で、印象深い山ですが、
今回の山旅も天候に恵まれ素晴らしい山行になりました。猿倉荘、村営頂上宿舎、白馬ハイランドホテルと3泊4日の山旅でした。
白馬尻小屋(ここから雪の上を歩きます)
山頂からのご来光です。(朝食前に山頂に行きました)
山頂から北アルプス方面
コマクサ(高山植物の女王)
白馬大池(こちらも雪が残っています)
雷鳥
☆服部さん、素敵な画像ありがとうございます。
山らしい山に登ったのは1973年の夏に登った白馬岳が最初でした。そういう意味では白馬岳は忘れられない山です。
山登りのベテランの会社の同僚に誘われて、ついOKしたのが運のつき、知らないままに唐松岳にも縦走。
途中で帰らずの何んとかという怖い場所を鎖を握りしめながら歩いたことを覚えています。霧が一瞬晴れて、
足元が断崖絶壁だとわかったときは身体がフリーズしました。
汗をかきながら店に入ると、13時過ぎなのに待っている人が一杯いました。お盆で家族連れが殆どでした。
2006年の暮に声をかけてもらって、それから年2回ほどいろいろな店でランチを楽しむ弓道部OB有志の食事会に参加しています。
今回は前に寿司とフグのコースを楽しんだ「うおぎん」でハモ鍋を楽しみました。やはりシーズンの旬の物はおいしい。
高橋先輩、毎回いい店と料理をチョイスし、予約して頂き感謝です。
今回は7人の参加でフルメンバーでした。前回の集まりは2月でした。
2006年の暮に声をかけてもらって、それから年2回ほどいろいろな店でランチを楽しむ弓道部OB有志の食事会に参加している。
今回はもう50年以上前に毎日通学で乗降したJR芦屋駅で集合。当然ながら駅舎も駅周辺も全く別の街になっている。
「かつら浜」は広いカウンターと8人くらい座れるテーブル席があり、(別に宴会も出来る部屋もあるとか)名前の通り高知の酒が殆ど揃っている。
我々は昼のコースをおいしく頂いた。
たかじんのヨメサンと作家の百田さんの話題などもあり、世相の森羅万象のお喋べりを楽しんだ。近ければ時々寄りたくなるいい店だった。
弓道部の先輩で長年写真道にも勤しまれているTさんが、通し矢の撮影に京都に行かれました。
三十三間堂は大変な数の女性がいて、私たちが参加した半世紀前の通し矢とは別物でその華やかさに驚いたそうです。
通し矢(三十三間堂)
今年は2014.1.12(日)に 第64回大的全国大会が京都の三十三間堂で行われました。
今年の参加者は成人男子652名、成人女子723名、称号者227名でした。
以前は、毎年1月の15日(成人式)に通し矢が開かれていましたが、今では、第2週の月曜日が成人の日になった為に、
15日に近い日曜日に通し矢が行われる様になりました。
この日は、三十三間堂が無料(600円)で入れます。本堂ではお加持が行われます。三十三間堂の東側の敷地には露店も出てます。
通し矢は江戸時代に武士が弓の腕を競いあった事が始まりとされています。
当時は120Mの長さの距離で的に当てた本数で競い合ったとされています。今では、60Mの長さで、2本の矢で競い合います。
成人男性・成人女性・称号者と分かれており、多くの参加者が9:00~16:00まで競い合いました。
射場は、三十三間堂の西側に設置され、成人女性は色とりどりの振り袖に、はかま姿の出で立ちで弓を射てました。
この通し矢には、称号者以外は20歳だけの特権で、ほとんどの人が一生に一度しか立てないので全国から来られてます。
愛知県豊田市の住人Hさんと知り合って50年以上になります。時々メール交信していますが珍しく写真付きのメールが来ました。
⇒「ここ数年前から全国的にも注目を浴びるようになりつつある、我が家から北方20kmにある豊田市小原(かつては小原村)の四季桜と紅葉の
里の今年の風景を送ります。
↑紅葉、四季桜、銀杏のコラボ
紅葉と四季桜
岐阜との県境にある土岐市の曽木公園の池に映える紅葉
同上、世界一大きい陶器の狛犬一対(高さ約3.5m)。土岐市は古田織部縁の地で古くからの陶器の里、
又明智光秀の里でもあります
ついでに、小原産の松茸。買うのは断念。写真でどうぞ。」
Hさん、今年も弓道部OB会の定例旅行の幹事役で、大牧温泉紀行の企画立案、予約手配などありがとう。
寒桜と紅葉の取り合わせは見事ですね。貴君とは練習後、春の桜も秋の紅葉も眼に入れず、よく一緒に雀荘へ坂を下りました。
また貴地と周辺の写真メールを待っています。
20年以上前、出張でよく高岡に来ましが、必ず買って帰っていた「せきの屋」の鱒の寿し。
百貨店の駅弁大会に出る有名ブランドの富山の鱒ずしは工場で大量生産されていますが、「せきの屋の鱒の寿し」は手作りの地元生産品です。
当時お世話になった代理店の社長さんも高岡の人が東京や大阪へ手土産に持っていくのは「せきの屋」の鱒の寿しだと言っていました。なにしろ肉厚が違い、寿し米もグレードが違います。
前の駅ビルでは一階には富山のブランド製品の鱒ずし、2階が「せきの屋」など地元高岡産の鱒ずしを売っていました。
家人も懐かしがっておいしいと喜んで食べました。
駅ビルの地下に下りると自然食品の小さなスーパーがあってここでも買い物をしました。
地元で取れた胡桃があったので喜んで買いました。くるみ割りで割って食べる胡桃が一番おいしいです。伯母が生きていた頃、信州茅野の菊沢から時々胡桃が届き喜んだものです。
2014.11.16 ~ 2014.11.22閲覧記事数:15620 PV、訪問者数:1317IP、ランキング:3249 位/ 2093033ブログ
自分の知っている高岡駅はもうどこにもありませんでした。近代的になった駅から歩いて10数分のとこにある「瑞龍寺」を訪ねました。
美しい参道があります。
瑞龍寺のHPから一部引用。
【沿革】
曹洞宗高岡山瑞龍寺は加賀藩二代藩主前田利長公の菩提を弔うため三代藩主利常公によって建立された寺である。 利長公は高岡に築城し、この地で亡くなった。
加賀百二十万石を譲られた義弟利常は、深くその恩を感じ、時の名工山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山とされた。
造営は正保年間から、利長公の五十回忌の寛文三年(1663)までの約二十年の歳月を要した。当時、寺域は三万六千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を想わせるものがあった。
国の重要文化財として、指定されている建造物は、総門、山門、仏殿、法堂、明王堂(現僧堂)、回廊であり、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。
お寺の受付から1人の僧が現れて我々16人のグループに声をかけてくれました。よろしかったらお寺を一緒に観てまわりましょうかと。
曹洞宗の永平寺で修業されたというこの僧のお蔭で、お寺の歴史や建物の特質をよく理解することが出来ました。そして熱意を込めて話される語り口の中に
人が集団や組織の中で成長し、よりよく生きていって欲しいという、この宗教者の持つ信念のようなものを感じました。そうか本来の坊さんとはこういう人のことを言うのだろうなと
感じ、実際の日々の行為で社会に貢献されている事を感じました。ただお寺の壮大さのハードウェア―に触れるだけでなく、この建物の中でなされている宗教活動という
ソフトウェアーの一部にも触れることが出来ました。入れ物だけでは施設は完成せず、中にいるヒトがどんな人かで決まるのは時代を越える真理のようです。
【利長と高岡】
加賀藩二代藩主前田利長は、慶長十四年(一六〇九)当時「関野」と呼ばれていた荒野に城を築き、近郊より民を集め城下町を造った。これが「高岡」の始まりである。
高岡の市街地は、現在も利長による開町時の町割りが形を変えることなく残されている。 利長は、市街地の東方、南北に延びる標高十二メートル余りの台地北部に城を築いた。
そして、台地の西方、一段下がった場所を碁盤目状に区画し、近郊の城下町より町人を集め町建てを許した。整然と区画された「商人のまち」は、旧城下町の名に因んで「木船(キフネ)町」・「守山(モリヤマ)町」あるいは、城との位置関係から「御馬出(オンマダシ)町」・「小馬出(コンマダシ)町」などと称された。
また、商人まちの西方には、「利屋(トギヤ)町」や「桧物屋(ヒモノヤ)町」などの職人町、そしてさらにその西方の「千保(センボ)川」の対岸には近郊の村より七人の鋳物師を招き
「金屋(カネヤ)町」が開かれた。 当初城下町として造られた「高岡」は、慶長十九年(一六一四)前田利長の死去とともに家臣団は金沢へ引き上げ、まもなく廃城となり
、急速にさびれ始めた。 このような状態を憂えた三代藩主前田利常は元和六年(一六二〇)に高岡商人の他所への転出を禁じ、城下町から商工業郡市への転換を図った。
利常は、城に替わる藩主の宿泊所として「御旅屋(オタヤ)」を創設し、「布判押人」を置き、砺波地方全域の特産であった「布」の集散地とした。また、川原町に魚問屋を置き
越中全域の魚を管理し上質のものは金沢へ移送した。そして、寛文十一年(一六七一)に、「綿問屋」を設置し、廃城後の城内には「米蔵」を置いた。
以後高岡は加賀藩では、藩都金沢に次ぐ商工業都市として発展していく。
ロケの撮影クルーが乗ってきたらしい小さな船に乗って元の船着き場へ戻りました。船は旅館が正面から見えるスポットまで回遊してから
帰ります。
30分のダム湖の船旅で着いた先は旅館が一軒しかない大牧温泉。周辺は何とか紅葉が残っていました。
水鳥が多くいました。鴛鴦もいました。
船着き場から上がった所にある門。
旅館の玄関。
この船が客を運んでいます。
夕食の一部
朝食。
一泊お一人様2万円の部屋と料理でした。一度は来てもいいかな・・、そういう類のスポットでした。
弓道部OB会の今年の旅行先は富山県の大牧温泉でした。阿智胡地亭は大牧温泉の名前を聞いたのも初めてですが、テレビドラマの
ロケ地で頻繁にテレビに登場するとかで、あいかたは「あぁ、船でしか行けない温泉ね」と即反応がありました。
大牧温泉に行く最寄駅はJR高岡駅です。高岡は20数年前頻繁に出張で来ていた懐かしい土地ですが、今回はじめて市街地を探訪しました。
道路を歩く人がほとんどいないことにすぐ気がつきました。このような有力な地方都市がこんな状態ではこれからの日本は・・。
モダンなストリートカーが走っていました。
市街地を歩いた後、市営バスで1時間20分ほどかけて大牧温泉行の船着き場、大牧堰堤に行きました。
写真アルバムです。△をクリックするとスタートします。
弓道部時代の友人t-hattoriさんから、涸沢の紅葉の写真50枚以上を載せた電子アルバムを作りましたと連絡がありました。
上高地から登っていく涸沢は紅葉の名所です。アルバムを見て美しい紅葉を堪能しました。
メールから⇒「本当は涸沢に泊まりたいと思ったのですが、満員で予約できず、小説「氷壁」の宿で有名な徳澤園のキャンプ場にテント泊して、
涸沢を往復しました。今年の山の紅葉は早く、ナナカマドの赤が綺麗でした。」
アルバムのサイトはこちら。
クリックして素晴らしい紅葉をフルスクリーンで楽しんでください。アルバムの中から4枚をご紹介します。
今回の弓道部OBの有志の集まりはフルメンバーの7人の参加でした。
メンバーは半年に一度ほどの間隔でエスニック料理を楽しんでいます。今回の行き先はJR神戸駅から歩いて7分の「海月食堂」。前から気になっていた店です。
ひょっとして日式中華(日本流中国料理)かもというのは杞憂で、本格中華料理の芯はぶれない創作中華でした。店はJR神戸駅と新開地の「トシヤ」の中間点くらい
にあるので、これからも寄ることになりそうです。
待ち合わせ場所は神戸駅の改札口前で、その前に改札対面のアーケードをぶらぶらしました。リニューアルしてマツモトキヨシ、成城石井、スターバックスなどが
テナントに入っていて少し驚きました。
一品ごとに丁寧に料理の説明を店主がしてくれました。出てきた順です。
企画して頂いた高橋さんは、お仲間や家族でこの店を時々利用しているとのことです。
店主は愛媛県の出身とHPに出ていたので帰り際に、阿智胡地亭は「いよいよ旨かったわね。また来るけんね」と好きな伊予弁を店主に言ってから出ました。
三宮の阪急東口を出て7,8分のビルの3階に店はありました。半年ほど前にインド料理の「ゲイロード」に集まった弓道部OBのうち5人が今回は
イタリアレストラン「R ヴァレンティーノ」で飲んで食べて賑やかにやりました。
店は料理人もホールスタッフも殆どがイタリア人でやっていました。主を含めて、全員が不自由なく日本語を使いこなしています。
ランチタイムは予約も取りにくいとネットにありましたが、夜も若い人の連れで、予約は満杯のようでした。確かにどのアイテムもレベルを維持していておいしい。
赤のハウスワイン2杯でいつになく相当酔ってしまいました。ピッチが速や過ぎたのかも知れません。
先輩三人はそれぞれ異なった企業での海外駐在の体験者ですが、この夜の話題はどうしても現在の中国との確執についてがメインになりました。
全員は3800円のコースで満腹になって、また半年後の会食を約し、降り出した雨の中を駅に向かいました。
神戸市灘区にお住いのO先輩からお便りを頂きました。ご夫妻で丹波篠山に行かれ名物の「ぼたん鍋」(しし鍋)を賞味されたそうです。
『先日、丹波篠山に「ぼたん鍋」を味わいに行ってきました。本当に美味しかったです。ご一緒した伊勢松阪の「すき焼き」も美味しかったですけど、
二者択一を迫られると、「ぼたん鍋」に軍配を上げたいと思います。
団栗や山芋を食べて育った丹波の猪は、11月から2月の間のイノシシ猟解禁の間に捕獲され、「ぼたん鍋」となって、丹波の冬の名物料理となっています
* まるで牡丹の花のように盛りつけられたイノシシのお肉。↑
*カレーではありません。秘伝のタレに赤味噌を入れて溶かした鍋に、お肉を入れます。そして、シシ16分(係の人は20分と言っていた)煮込みます。
その間、野菜を順次入れます。ノシシのお肉は長い間煮込んでも、全然固くならず、美味しいです。
*私たちは、司馬遼太郎も泊まったという、割烹旅館「潯陽楼」でいただきました。
*篠山の町には、イノシシの肉を売るお店があちこちに有りました。
」
O先輩ありがとうございました。「ぼたん鍋」は他所でも食べることができますが、猪肉をおいしく食べさせる技術はやはり篠山が一番のようですね。
こちらから阿智胡地亭の篠山シリーズに入ることが出来ます。
(最初のエントリーの次から5編あります)