2012年11月02日 13時19分
2日午前1時前、沖縄県読谷村(よみたんそん)古堅(ふるげん)の居酒屋から「米兵らしき男が酔って暴れている」との110番通報があった。
その後、米兵は1階の居酒屋からビル3階の女性会社員(41)宅に侵入し、屋内にいた息子の男子中学生(13)の左ほおを殴打したとみられる。米兵は民家の窓から出ようとして転落、負傷したため、米軍基地内の病院へ搬送され、そのまま入院した。沖縄県警は住居侵入と傷害などの疑いで捜査している。
在日米軍は、先月16日に米海軍兵2人が起こした集団強姦(ごうかん)致傷事件を受け、19日に日本に駐留するすべての米軍兵士に対し夜間外出(午後11時〜翌午前5時)の禁止令を出したばかり。外出禁止時間帯の事件のため、米軍に対する反発や、垂直離着陸機MV22オスプレイの強行配備への反発が沖縄全体で更に強まるのは必至だ。
沖縄県警によると、所持していた身分証明書から、米空軍嘉手納基地(同県嘉手納町など)に所属する24歳の米兵で、米軍も米兵と認めているという。侵入した民家は鍵が掛かっておらず、米兵と男子中学生に面識はなかった。米兵は民家内のテレビなども蹴って壊したといい、器物損壊の疑いもある。男子中学生も米兵も重傷ではないという。
米兵の身柄については、県警と米軍の間で今後、調整する。しかし、日米地位協定により、日本側への身柄引き渡しが実現するかは不透明だ。
通常、外国人の場合は本人に確認を取った上で近くの米軍の海軍病院=同県北谷町(ちゃたんちょう)=へ搬送している。今回も米兵本人が了解したため、2日午前1時33分に海軍病院へ搬送した。搬送時、米兵は意識があり、全身の痛みを訴えていたという。
県警は、米兵は発見時にけがをしていたため、通常通り、負傷者として海軍病院へ搬送。その後の捜査で中学生への傷害や器物損壊の疑いなどが浮上したと説明している。【井本義親】
☆自分の部屋で寝ていたら、侵入してきた、でかい?アメリカ兵士から突然殴られた中学生。生きた心地がしなかっただろうな。
しかしいずれにしてもこの米兵の裁判権は、日米地位協定によってアメリカ軍側にある。
Wikipediaから部分引用。
「日米地位協定(にちべいちいきょうてい)、U.S. - Japan Status of Forces Agreement、SOFA。
正式名称「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における
合衆国軍隊の地位に関する協定(Agreement under Article VI of the Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America,
Regarding Facilities and Areas and the Status of United States Armed Forces in Japan)は、1960年(昭和35年)1月19日に、
新日米安保条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)第6条に基づき、日本とアメリカ合衆国との間で締結された地位協定。
主に在日米軍の日米間での取り扱いなどを定める。1952年(昭和27年)2月28日に、旧・日米安全保障条約3条に基づいて
締結された日米行政協定(日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定)を承継する。
本項では一般的な呼称である「日米地位協定」で記述する。」
「この法律の第17条により、合衆国の軍法に服するすべての者に対して(第17条1-a)、また米軍基地内において(第17条1-b反対解釈)、
合衆国の法令のすべての刑事及び懲戒の裁判権を日本国において行使する権利を有する。
とされ、アメリカ合衆国軍隊が第一次的裁判権を持つ。
米軍の軍法に服する者には、日本で罪にならない犯罪でも米国の法令で犯罪となるなら、米軍が専属的裁判権を行使する権利を有する(第17条2-b)。
また裁判権が競合する場合でも、公務執行中の作為又は不作為から生ずる場合は、
合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して米軍が第一次的裁判権を有する(第17条3-a)とされる。」
サンフランシスコの中心部から車で20分ほどの距離に、プレシディオ国立公園がある。
対日講和条約が調印された1951年9月8日、日米安全保障条約が締結されたのは、当時米第6軍の基地として使用されていたこの地であった。
講和会議の舞台となった華やかなオペラハウスとは対照的な、下士官用クラブハウスの小さな一室での調印式で、
日本政府を代表して署名したのは吉田茂首相ただひとりだった。
日本国内の基地を米国に提供することによって安全保障を米国に委ねるという内容が、日本国内では不人気であろうことを彼は見越していた。
(楠綾子の『吉田茂と日米同盟の形成』から一部引用)
ところで吉田茂の長男、吉田健一(英文学者)が父について書いた文章がある。
吉田茂と吉田茂が生きた時代の空気が身内の目から見た範囲で活写されていて面白い。 こちら
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