≪ブログ初出 2015年12月12日≫
野坂昭如さんが毎月寄稿していた雑誌
週刊「平凡パンチ」創刊号。昭和39(1964)年5月11日号
月刊誌「話の特集」昭和41(1966)年2月創刊
本を読んでもしばらくすると何が書いてあったか忘れてしまう。
でも「その本を読む前のあなたと読んだ後のあなたはどこか違ってる」という言葉を知ってから
忘れてもいいのだと思うようになった。そういう意味で言えば、野坂昭如、庄野潤三、吉村昭、鶴見俊輔、半藤一利、保坂正康、水木しげるさんたちは
明確に何がとは言えないがその存在が私の身中に今も残っているのだろう。
中でも野坂昭如さんは、一時全作を揃えようと古本屋まわりもしたことがある。しかし筆が荒れている時期もあり、売文の著作もあり、それはやめた。
彼の「火垂るの墓」の静かな衝撃は、読んで以降 私の中にずっと残ってこれまで来た。
戦争屋の扇動やプロパガンダが今もこれからもあるだろうが、一般の人間にとって戦争になれば、
自分と家族と知り合いに何が起こるかを、この本はこれからも伝えていく。
☆1991年11月、写真家栗田格さんが野坂昭如さんの自宅で撮影したポートレイトには、
野坂昭如の凄みと生真面目さ、あるいは含羞の硬骨漢が映しだされています。
■ 好色の魂 ■ 水虫魂 ■ マリリン・モンロー・ノー・リターン ■ 騒動師たち ■ とむらい師たち
■骨餓身峠死人葛(ほねがみとうげほとけかずら) ■ 童女入水(どうじょじゅすい)
などは今も岩波現代文庫「野坂昭如ルネッサンス」で入手できる。
神戸新聞 「正平調」2015/12/11
【野坂昭如さん死去】 それほどに戦争を憎んだ / 自由すぎるおじさん
昭和一桁世代と言われ、浮かぶ顔がいくつもある。父に叔父、小中学校の担任の教師、少年野球の監督も
◆戦場で、空襲の町で死を覚悟し、戦後は飢えの苦しみを味わう。高度成長のさなかも、どこかさめたところがあり、国は信用できないと話す。
子ども心に、大人とは何とややこしく理解し難い存在か、と思った覚えがある
◆今はもういないいくつもの顔が、浮かんでは消えていく。作家の野坂昭如さんの訃報を聞いてから、ずっと。そうか、野坂さんも亡くなったか。
著書の題名になぞらえながら、「野坂昭如・ノー・リターン」とつぶやく
◆三宮、御影、西宮に明石。なじみの土地が登場する「火垂(ほた)るの墓」にはいつも泣かされる。
「お兄ちゃん、どうぞ」「それからおからたいたんもあげましょうね」。こうして主人公の妹節子の言葉を書き写すだけで、涙腺が緩む
◆「ぼくは作中の少年ほど、妹にやさしくなかった」と言いながら、戦時下で亡くした幼い妹のことを何度も書いた。
自らの記憶を風化させないよう、人の経験を聞き体験記を読みあさったと記す。それほどに、戦争を憎んだ
◆「昭和20年6月5日午前7時、神戸市上空高曇り」。空襲で焼け出された日になると毎年、空を見上げたそうだ。
命日となった12月9日午前、神戸市上空は青空が広がった。
2015・12・11
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野坂昭如『火垂るの墓』 あとがきより
君たちの生まれる前、戦争があった。
だが今、戦争を迎え入れつつある。いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状態なのだ。
物を食べる時、作った人や、その収穫物に感謝する気持ちがあったし、大地の恩、水、天の恵みを有難く思っていた。
「いただきます」という言葉には、そういった気持ち、すべてが込められていた。
君たちが大人になる頃、戦争を経験したぼくたちはもういないだろう。
戦争について、語りあって下さい。語り合うことが大事です。
そして、ここに書かれなかった戦争の真実を、君たちの力で自分のものにしてください。