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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

東陽一監督映画祭開催中。  大阪九条のミニ映画館「シネ・ヌーヴォ」にて。

2017年01月30日 | 音楽・絵画・映画・文芸


東陽一略歴(Higashi Yoichi)
◆1934年、和歌山県生まれ。1954年、早稲田大学文学部に入学、内外の文学作品を耽読するかたわら、映画館にも足繁く通った。58年、卒業と同時に岩波映画製作所に入社。主として黒木和雄のもとで助監督につく。62年に退社。黒木や土本典昭、小川紳介、岩佐寿弥ら元岩波映画の仲間たちと「青の会」を結成。ひたすら作りたい映画について議論を重ねる。63年、初の監督作品『A FACE』でその斬新な映像表現が注目される。その後、「映像芸術の会」に参加、評論も手掛け、69年、東プロダクションを岩波映画の仲間だった高木隆太郎と創立して、軍事基地の島、沖縄の実相に迫った長編記録映画『沖縄列島』(1969)を監督。全国的な自主上映活動を行い、画期的な成功を収める。71年には初の劇映画『やさしいにっぽん人』を監督。70年安保反対闘争後の若者の心情を東京・新宿と沖縄の二つに主舞台を据えることで、微妙な味わいのある映像表現の中に日本人の意識構造をも照らし出し、日本映画監督協会新人賞を受賞する。73年、東プロダクションを改組し、「青林舎」を発足。同年、民話的妖怪サトリを登場させ、現代人の不安を追求した『日本妖怪伝・サトリ』を監督。75年、青林舎を離れ、77年に前田勝弘と幻燈社を創りATGと提携し寺山修司脚本で元高校野球の三塁手を主人公に青春の断面を鮮やかに切り取った『サード』を撮り、78年度キネマ旬報ベストテン第1位を獲得、同監督賞など各映画賞を独占。79年にもATGで女子大生の愛と性と風俗をヴィヴィッドに描いた『もう頬づえはつかない』を発表。若い女性たちを中心に圧倒的な支持を得て、ATG史上異例の観客動員に成功する。80年以降は、現代女性の生を瑞々しく描いた快作を、時代時代の人気女優を主役に据えて次々と発表。シナリオなしで五木寛之原作の映像化を試みた『四季・奈津子』(80)、『マノン』(81)、『セカンド・ラブ』(83)、『湾岸道路』(84)と作品を積み重ね、「銀座の女」の変身を描いた渡辺淳一原作の『化身』(86)をヒットさせ、女性映画の巨匠としての地位を揺るがないものにした。92 年、住井すゑ原作の被差別の歴史を描いた歴史大作『橋のない川』で毎日映画コンクール監督賞などを受賞。90年代以降は、青林舎を改組した「シグロ」の山上徹二郎プロデューサーとコンビを組んで数々の作品を発表。96年の『絵の中のぼくの村』はベルリン国際映画祭銀熊賞、2000年の『ボクの、おじさん』はベルリン国際映画祭パノラマ・スペシャル部門への招待作品、2003年の『わたしのグランパ』は第27回モントリオール世界映画祭で最優秀アジア映画賞、2004年の『風音』は第28回モントリオール世界映画祭でイノベーション賞を受賞するなど、国内にとどまらず海外でも高い評価を得る。6年ぶりに発表した『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』(10)で第20回日本映画批評家大賞監督賞を受賞。同年、バリアフリー官能映画「エロバリ(エロティック・バリアフリー)」シリーズに挑戦し、東ヨーイチの名義で作品を発表。昨年は82歳にして『だれかの木琴』を発表、巨匠でありながら瑞々しい映像表現で見るものを驚かした。東の劇映画には今回上映出来なかった『湾岸道路』(84年/東北新社・幻燈社)がある。権利の問題から残念ながら上映できなかったが、いつか上映したいと思っている。著書に『午後4時の映画の本』(79年/パンドラ社)、『映画と風船〜ぼくと映画と女優たち』(80年/パンドラ社)、『映画美術の情念』(92年/内藤昭との共著/リトルモア)。岩波映画以来の盟友、小川紳介、土本典昭、黒木和雄、岩佐寿弥、大津幸四郎らが死去。岩波出身でメジャーではない独立プロ出身の監督として、いまや日本映画の至宝のような存在である。今後も活躍を期待したい監督である。

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