「涼宮ハルヒの消失」の舞台、神戸・甲南病院が建て替え工事へ【写真で見る近代建築】(クリック)
バスの中から ガードはJR神戸線。
甲南病院。ガードは阪急神戸線。
阪神御影から久しぶりに甲南病院ルートのバスに乗って帰りました。病院の工事が始まっていました。
完成予想図
甲南病院
グループ概要
人類愛の精神に基づき、あらゆる点において病人を本位とした
「悩める病人のための病院たらん」
創立者 平生釟三郎
昭和9年に平生釟三郎氏により開設された財団法人甲南病院は、第二次世界大戦や阪神大水害など幾多の危機を乗り越えてきました。当初118床であった病院は、昭和62年には400床の病院になり、その後も発展が続き、平成4年に六甲アイランド病院が、平成12年には国立加古川病院の移譲を受け加古川病院が、そして引き続いて六甲アイランドに介護老人保健施設ならびに訪問看護ステーションが開設されました。人類愛の精神に基づき、あらゆる点において病人を本位とした「悩める病人のための病院たらん」という創立者の思いを基本理念として、質の高い医療を提供できる病院、そして皆様に開かれた信頼される病院として在り続けたいと願っております。
平生釟三郎の言葉
創設者 平生 釟三郎
人類の生存を脅かし、幸福を覆すものの一つに病気があります。病気は何人も避けることのできないものであるだけに、病みて十分の治療を受けられる病院が必要であります。
ここに我々は、人類愛の精神に基づき、共存共栄に助け合って行きたいものと考え、あらゆる点において病人を本位とした「悩める病人のための病院たらん」ことを切望し、甲南病院を設立したものであります。
(昭和9年6月17日)
平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう、慶応2年5月22日(1866年7月4日) - 昭和20年(1945年)11月27日)は、日本の実業家、教育者(甲南学園創立者)、政治家(廣田内閣で文部大臣、貴族院勅選議員、枢密顧問官)。Wikipediaから部分引用。
明治、大正、及び昭和初期に活躍し、移民制限を始めたブラジルに対し経済的貢献により移住を確保しようと海外移住組合連合会長だった平生が訪伯経済使節団長としてブラジルに渡るなどした。その功績により、1935年ブラジルコメンダトール勲章。灘購買組合(日本初の生協)の設立、大阪ロータリークラブの設立にも尽力。政治家の床次竹二郎を後援し、献金をした。甲南大学の創立者でもある。 東京外国語学校露語科の同級生に二葉亭四迷がいる。二人は首席を争った。
国際留学生協会のHPから部分引用
ブラジル移民支援
平生釟三郎が、ブラジルと関わりを持ち始めたのは、海外移住組合連合会の2代目会長に就任してからである。当時の日本は満州事変(1931年)後、侵略国家の烙印を押され国際的孤立状態に陥っていた。その中で唯一ブラジルだけが日本からの移民に好意的だった。そのブラジルが移民を制限しようとする動きに出たので、政府としては民間の経済外交で事態を打開しようとしたのであった。政府はブラジルへ経済使節団の派遣を決定し、釟三郎に団長就任を依頼してきた。大いに迷いながらも、ブラジル移民問題は「より高い奉仕である」という結論に至り、最終的に受託した。この時も無報酬を貫いたのである。
釟三郎の基本的考えは、移民問題は時間をかけて解決するもので、まずは両国が共存共栄のパートナーになることが先決だというもの。ブラジルの綿花を輸入し、貿易により経済に貢献することで、移民の道が閉ざされないようにしようと考えた。使節団の滞在期間は、実に7ヶ月に及び、民間外交は大成功をおさめた。両国の貿易額は、一気にそれまでの10倍を越し、両国の親善友好関係は確実に深まった。ブラジルで盛り上がりかけていた排日気運を一挙に押し返すことに成功したのである。この功績で、帰国した釟三郎は天皇陛下に御前講演を進講する栄誉を担い、ブラジル政府から勲章を贈られた。
釟三郎のブラジルとの関わりはこれで終わらなかった。ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の理事長に就任し、移民支援事業に本格的に取り組み始めるのである。そして、拾芳会の第一期生であり、平生家に寄宿していた宮坂国人(クリック)をブラ拓の専務理事(最高責任者)として送り込み、全面的な支援体制を築き上げていく。彼がこうまでして移民支援に乗り出したのは、共存共栄の国策を進めることで、戦争回避を目指していたからでもあった。それが国家への奉公と確信していたのである。
しかし戦争回避の願いむなしく、日本は太平洋戦争へと突入してしまった。日本が敗戦したその年(1945年)の12月、焦土と化した日本の再生を祈りつつ、80歳の生涯を終えた。「人は如何に生きるべきか」。社会奉仕に身を捧げた平生釟三郎の生涯は、この問いに一つの解答を残してくれた。
宮坂國人 20世紀日本人名事典から引用。
昭和期の移民事業家 南米銀行創始者。 ブラジル移民事業の先駆者。
国籍ブラジル
生年明治23(1890)年7月15日
没年昭和52(1977)年3月21日
出生地長野県諏訪市
学歴〔年〕神戸高商(現神戸大学)〔大正2年〕卒
主な受賞名〔年〕ブラジル南十字星勲章,勲三等旭日中綬章,サンパウロ市名誉市民
経歴東洋移民に入社、ペルーに渡り移民事業に従事、大正8年帰国。11年太田工業に転じフィリピンに渡航。昭和4年ブラジル柘植組合(のちの海外移住連合会)設立に参加、同連合会専務としてブラジルに渡り、サンパウロ州、パラナ州に4つの日本人移住地を経営。11年パラグアイに最初の日本人移民を導入、コルメナ移住地を創設。15年南米銀行設立に参加、のち社長、会長を務め、日系企業育成、日語普及会会長、日本文化協会長として日系社会発展に尽力した。死後宮坂国人記念育英基金が設けられた。
次世代の指導的役割を担う女性研究者を支援する、第10回「資生堂 女性研究者サイエンスグラント※1」の受賞者10名を選出しました(応募総数193名)。授賞式は7月7日(金)に開催し、受賞者には資生堂から各100万円の研究助成金を贈呈します。資生堂は今後も継続的に優秀な女性研究者の研究活動を支援することにより、指導的女性研究者の育成に貢献してまいります。
※1:グラントとは「研究助成金」の意味