千葉県にある印旛沼のほとりの里山住人kさん夫妻の台湾最南端旅行の4日目です。 (Kさんとはお互い愛媛県新居浜市の工場独身寮で出会って昭和41年に「椎(41)の会」という同期会に加入して以来の付き合いです。)4日目の朝ホテルより山側の方へ散歩に行った。100mほど行くと大きな門があり「歓迎光臨牡丹郷大梅」と書いてあり原住民風の彫刻も施されている。この一帯は原住民の村なのだ。村には小さなお寺が二つ、道端には可愛いピンクの時計草などの花が咲いていた。
大梅
今日は高雄、台北を経由してウーライ温泉に向かう。高雄/左営駅で下見していた土産物屋に行くと一昨日の女性店員が笑顔で迎えてくれた。ここで土産物を購入した。予約していた新幹線には時間があったのでタピオカミルクティーの名店、春水堂へ行くことにした。三越にあることまでは調べておいたが詳細は不明、多くに人に助けられながら11時開店と同時に入店してタピオカミルクティーを注文、ゆっくりとお茶を楽しむ時間もなく店を後にした。
タアピオカミルクティー
昼食は三越のフードコートで買った台湾風おこわ2種類とセブンイレブンで買ったアサヒスーパードライ。台北駅で大きなバッグを置いて一人で駅前の福州世祖胡椒餅を買いに行った。気温計は30度だったが風があったので心地良かった。
昼食のおこわ
晴天の台北駅
台北駅のクラーの効いたメインロビーで胡椒餅を食べたが焼き立てで美味しかった。
福世胡椒餅
台北駅からウーライ温泉まではバスで1時間10分ほど、バス料金は180円という安さだ。バスは4時ごろウーライ温泉駅に到着、ホテル迄ウーライ老街を通り抜けて向かった。土曜日であり温泉街は人でごった返していた。外国人客も見受けられた。ホテルのチェックインは18時だが荷物を預けに行ったら17時30分にはチェックインOkと言われたのでそれまで温泉街を散策した。ウーライ温泉の多くのホテルは昼間は日帰り客に部屋を提供しているのでチェックイン時間は遅い。
ウーライ温泉
老街の散策、吊り橋を渡ったりしながら時間を過ごしてホテルに戻り、温泉に浸かってから食事に向かった。日か暮れかかってくると日帰り客はいなくなり寂しい温泉街だ。食事は原住民タイヤル族の家族が経営する泰雅婆婆美食店、店先には新鮮な山菜、野菜などが並んでいる。
夕暮れのウーライ老街
泰雅婆婆美食店
注文書を貰ったがメニューと店先の現物を見合わせているとおばさんが日本語のメニューを持ってきた。空心菜、山ネギ、川エビと小魚の唐揚げ、竹筒御飯4点を頼んだらおばさんが日本語で「水連と山猪肉がお薦め」と言ってきたのでこちらも注文、計5品になって今日も食べ残した。ビールを注文すると店の端の方を指さす、行ってみたがビールはない。再度聞くと開かれたドアーをくぐって隣の店に連れていかれた。ビール瓶を取り出して飲み始めたら隣の店のおばさんが何か言いながら来た、どうもビール代を払えということらしく持っているお金を出したら100元持って行った。隣の店は同族経営で主に酒類のお土産物屋だが会計は別の様だ。ライトアップされた吊り橋を見てからホテルに帰った。
翌朝は5時半にホテルを出て山側のウーライ滝まで30分ほどの散歩、空気もきれいですがすがしい。ホテルに戻ったが朝食まで時間があるので部屋の窓から見えたウーライ名物の川湯温泉に行ってみた。ウーライ名物の川端での入浴は最近禁止されたが、今回2か所で確認された。
夜の吊り橋
ウーライ滝
川端の石の間から高温の温泉が湧いていて、石で堰き止めて川の水を引き入れて温度調節している。地元の人、子供を連れた家族が30人位入浴していた。温度は泉源の近くは高温、川に水の近くは冷たい、温度調節が必須な温泉だ。地元の人に交ざって足湯を楽しんだ。
川湯温泉
ホテルに戻り朝湯を浴び、朝食を食べてウーライを後にして帰途に就いた。
☆kさん、旅行記を読んで今回もまた自分も台湾最南端を楽しんでいるような気になりました。今まさにこうして台湾人が暮らしている!そういうことも自然にわかり昭和50年代の台湾からかの国が大きく変化したと実感しました。それにつけても一般の国民が幸せな国、余裕のある日常生活のある国は旅行で行っても楽しいですよね。沢山の貴重な面白い情報に謝謝你 。
里山住人夫妻の海外旅行記の掲載は2006年11月24日に掲載した大連旅行記からスタートしました。その後の全記録は本ブログのカテゴリー「印旛沼の里山住人の寄稿アルバム集」にあります。南米北米欧州中国韓国まで含む広範囲の世界旅行記を楽しめます。寄稿アルバム集には現在国内の投稿記事を含めて147編のエントリーが掲載されています。
kさんの旅行記投稿のきかっけになった阿智胡地亭の「大連に関するエッセイ」は次の通り。
海外あちこち記#32中国/大連篇(1982年ごろ?の大連出張でこの文章は2001,2年ごろ作成)
1)大連駅を降りると駅前は大きな放射線状のロータリーになっていました。
他の中国の都市の道路は碁盤の目の設計ですが、この都会は1899年にロシア人によって完成したため、ヨーロッパ式の町作りになっているそうです。ロシアの後は日本が戦前まで統治していましたから沢山の日本人が住んでいました。
現在市内人口177万人という大都会です。出張で行った20年前はまだ町全体が暖房用の石炭の煤のせいか、くすんで見えました。
大連港には旧式の港湾クレーンが林立していましたが、大型外航船の数は少なく神戸港やシンガポール港を見た目で見ると寂しい限りです。旅客船埠頭に立ち、ここと日本の間をどれだけ多くの人達が船で往来したのかと思いながらしばらく立ち尽くしました。今この港にこの出張の後の国際入札で落札した荷役機械が稼動しているはずです。
大連には入札に備えての事前調査で大連機械公司を訪問した訳ですが、大きな製缶工場や機械工場がある会社でした。
2)余談ながら、大連に滞在している時は頭に浮かびませんでしたが、満州からソ連の参戦で脱出した家族の中に新田次郎の家族がいます。
藤原てい作『流れる星は生きている』という本があります。戦後すぐのベストセラー小説です。夫がソ連の収容所に連行され、27歳の作者は子供三人を連れて満州から脱出せねばならない。正広六歳、正彦三歳、咲子は生後まだ一ヶ月である――昭和20年8月9日のソ連参戦の夜から昭和21年9月に日本にたどり着くまでの一年におよぶ記録です。作者の夫は「強力伝」「八甲田山死の彷徨」「アラスカ物語」などを書いた新田次郎ですが、この本が出た当時は気象庁勤務の一介の技官でした。
たまたま藤原ていさんが諏訪二葉女学校で母の数年後輩であり、母はていさんの姉と同級で寄宿舎も一緒だったというご縁で、この本が家にあり小学生時代に読みました。昼間は隠れ、夜間だけ歩きに歩いてプサンを目指して移動。毎晩泣く子をしかりつけ、子供の足裏に食い込んだ小石や砂を指でほじくり出すのが日課だった。沢山の引き上げ日本人が経験した極限状態の逃避行の記録です。新田次郎は同じく諏訪の角間新田地区の出身で、角間新田は僕の父の実家から上の方にあり、角間新田の新田をペンネームにしたと聞きました。新田次郎は気象庁ではノンキャリアであったことと、奥さんが先に世に出たこともバネにして、官舎で夜こつこつと小説家を目指して習作に励んだと知り合いから聞きました。
「若き数学者のアメリカ」を書き、 『心は孤独な数学者』などの作者で、最近はエッセイも多い藤原正彦は引き上げ当時3才だった2人の次男です。また、乳飲み子で背負われて日本に辿り着いた藤原咲子さんが最近「父への恋文」という本を上梓したようです。
中国、台湾、韓国など乗りこまれた方(ほう)と乗り込んだ方、いい目にあった方と辛い目にあった方、一瞬にして攻守ところを変えられて翻弄された一軒一軒のそれぞれの国のそれぞれの家族の歴史。町の歴史。いつもそんなことを思って出張するわけでは毛頭ありませんが、アジアの国の町で出張の中の休日に町を一人で歩くと、パリやロンドン、ソールトレイクシテイなどを歩くのとは違う思いが時にはします。特に大連には旧大和ホテル、満鉄大連本社、その社員の宿舎群、アカシア並木等が残っており、おいしい肉饅頭をほおばりつつ、当地にご縁のある自分の何人かの知り合いの方のことを思い出しながら歩きました。
大梅
今日は高雄、台北を経由してウーライ温泉に向かう。高雄/左営駅で下見していた土産物屋に行くと一昨日の女性店員が笑顔で迎えてくれた。ここで土産物を購入した。予約していた新幹線には時間があったのでタピオカミルクティーの名店、春水堂へ行くことにした。三越にあることまでは調べておいたが詳細は不明、多くに人に助けられながら11時開店と同時に入店してタピオカミルクティーを注文、ゆっくりとお茶を楽しむ時間もなく店を後にした。
タアピオカミルクティー
昼食は三越のフードコートで買った台湾風おこわ2種類とセブンイレブンで買ったアサヒスーパードライ。台北駅で大きなバッグを置いて一人で駅前の福州世祖胡椒餅を買いに行った。気温計は30度だったが風があったので心地良かった。
昼食のおこわ
晴天の台北駅
台北駅のクラーの効いたメインロビーで胡椒餅を食べたが焼き立てで美味しかった。
福世胡椒餅
台北駅からウーライ温泉まではバスで1時間10分ほど、バス料金は180円という安さだ。バスは4時ごろウーライ温泉駅に到着、ホテル迄ウーライ老街を通り抜けて向かった。土曜日であり温泉街は人でごった返していた。外国人客も見受けられた。ホテルのチェックインは18時だが荷物を預けに行ったら17時30分にはチェックインOkと言われたのでそれまで温泉街を散策した。ウーライ温泉の多くのホテルは昼間は日帰り客に部屋を提供しているのでチェックイン時間は遅い。
ウーライ温泉
老街の散策、吊り橋を渡ったりしながら時間を過ごしてホテルに戻り、温泉に浸かってから食事に向かった。日か暮れかかってくると日帰り客はいなくなり寂しい温泉街だ。食事は原住民タイヤル族の家族が経営する泰雅婆婆美食店、店先には新鮮な山菜、野菜などが並んでいる。
夕暮れのウーライ老街
泰雅婆婆美食店
注文書を貰ったがメニューと店先の現物を見合わせているとおばさんが日本語のメニューを持ってきた。空心菜、山ネギ、川エビと小魚の唐揚げ、竹筒御飯4点を頼んだらおばさんが日本語で「水連と山猪肉がお薦め」と言ってきたのでこちらも注文、計5品になって今日も食べ残した。ビールを注文すると店の端の方を指さす、行ってみたがビールはない。再度聞くと開かれたドアーをくぐって隣の店に連れていかれた。ビール瓶を取り出して飲み始めたら隣の店のおばさんが何か言いながら来た、どうもビール代を払えということらしく持っているお金を出したら100元持って行った。隣の店は同族経営で主に酒類のお土産物屋だが会計は別の様だ。ライトアップされた吊り橋を見てからホテルに帰った。
翌朝は5時半にホテルを出て山側のウーライ滝まで30分ほどの散歩、空気もきれいですがすがしい。ホテルに戻ったが朝食まで時間があるので部屋の窓から見えたウーライ名物の川湯温泉に行ってみた。ウーライ名物の川端での入浴は最近禁止されたが、今回2か所で確認された。
夜の吊り橋
ウーライ滝
川端の石の間から高温の温泉が湧いていて、石で堰き止めて川の水を引き入れて温度調節している。地元の人、子供を連れた家族が30人位入浴していた。温度は泉源の近くは高温、川に水の近くは冷たい、温度調節が必須な温泉だ。地元の人に交ざって足湯を楽しんだ。
川湯温泉
ホテルに戻り朝湯を浴び、朝食を食べてウーライを後にして帰途に就いた。
☆kさん、旅行記を読んで今回もまた自分も台湾最南端を楽しんでいるような気になりました。今まさにこうして台湾人が暮らしている!そういうことも自然にわかり昭和50年代の台湾からかの国が大きく変化したと実感しました。それにつけても一般の国民が幸せな国、余裕のある日常生活のある国は旅行で行っても楽しいですよね。沢山の貴重な面白い情報に謝謝你 。
里山住人夫妻の海外旅行記の掲載は2006年11月24日に掲載した大連旅行記からスタートしました。その後の全記録は本ブログのカテゴリー「印旛沼の里山住人の寄稿アルバム集」にあります。南米北米欧州中国韓国まで含む広範囲の世界旅行記を楽しめます。寄稿アルバム集には現在国内の投稿記事を含めて147編のエントリーが掲載されています。
kさんの旅行記投稿のきかっけになった阿智胡地亭の「大連に関するエッセイ」は次の通り。
海外あちこち記#32中国/大連篇(1982年ごろ?の大連出張でこの文章は2001,2年ごろ作成)
1)大連駅を降りると駅前は大きな放射線状のロータリーになっていました。
他の中国の都市の道路は碁盤の目の設計ですが、この都会は1899年にロシア人によって完成したため、ヨーロッパ式の町作りになっているそうです。ロシアの後は日本が戦前まで統治していましたから沢山の日本人が住んでいました。
現在市内人口177万人という大都会です。出張で行った20年前はまだ町全体が暖房用の石炭の煤のせいか、くすんで見えました。
大連港には旧式の港湾クレーンが林立していましたが、大型外航船の数は少なく神戸港やシンガポール港を見た目で見ると寂しい限りです。旅客船埠頭に立ち、ここと日本の間をどれだけ多くの人達が船で往来したのかと思いながらしばらく立ち尽くしました。今この港にこの出張の後の国際入札で落札した荷役機械が稼動しているはずです。
大連には入札に備えての事前調査で大連機械公司を訪問した訳ですが、大きな製缶工場や機械工場がある会社でした。
2)余談ながら、大連に滞在している時は頭に浮かびませんでしたが、満州からソ連の参戦で脱出した家族の中に新田次郎の家族がいます。
藤原てい作『流れる星は生きている』という本があります。戦後すぐのベストセラー小説です。夫がソ連の収容所に連行され、27歳の作者は子供三人を連れて満州から脱出せねばならない。正広六歳、正彦三歳、咲子は生後まだ一ヶ月である――昭和20年8月9日のソ連参戦の夜から昭和21年9月に日本にたどり着くまでの一年におよぶ記録です。作者の夫は「強力伝」「八甲田山死の彷徨」「アラスカ物語」などを書いた新田次郎ですが、この本が出た当時は気象庁勤務の一介の技官でした。
たまたま藤原ていさんが諏訪二葉女学校で母の数年後輩であり、母はていさんの姉と同級で寄宿舎も一緒だったというご縁で、この本が家にあり小学生時代に読みました。昼間は隠れ、夜間だけ歩きに歩いてプサンを目指して移動。毎晩泣く子をしかりつけ、子供の足裏に食い込んだ小石や砂を指でほじくり出すのが日課だった。沢山の引き上げ日本人が経験した極限状態の逃避行の記録です。新田次郎は同じく諏訪の角間新田地区の出身で、角間新田は僕の父の実家から上の方にあり、角間新田の新田をペンネームにしたと聞きました。新田次郎は気象庁ではノンキャリアであったことと、奥さんが先に世に出たこともバネにして、官舎で夜こつこつと小説家を目指して習作に励んだと知り合いから聞きました。
「若き数学者のアメリカ」を書き、 『心は孤独な数学者』などの作者で、最近はエッセイも多い藤原正彦は引き上げ当時3才だった2人の次男です。また、乳飲み子で背負われて日本に辿り着いた藤原咲子さんが最近「父への恋文」という本を上梓したようです。
中国、台湾、韓国など乗りこまれた方(ほう)と乗り込んだ方、いい目にあった方と辛い目にあった方、一瞬にして攻守ところを変えられて翻弄された一軒一軒のそれぞれの国のそれぞれの家族の歴史。町の歴史。いつもそんなことを思って出張するわけでは毛頭ありませんが、アジアの国の町で出張の中の休日に町を一人で歩くと、パリやロンドン、ソールトレイクシテイなどを歩くのとは違う思いが時にはします。特に大連には旧大和ホテル、満鉄大連本社、その社員の宿舎群、アカシア並木等が残っており、おいしい肉饅頭をほおばりつつ、当地にご縁のある自分の何人かの知り合いの方のことを思い出しながら歩きました。