阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

今、京都は「都をどり」の季節  2009年の今日、4月11日掲載の記事

2019年04月11日 | ゲストルーム


神戸市垂水区在住の登山家でカメラウーマンのさくらさんが、昨日「都をどり」を観に行かれました。写真12枚付きのメールが届きました。
「開演まで時間がありましたので、八坂神社にお参りに行きました。

八坂神社には舞殿があります。

舞殿に奉納された提灯の中に「枡梅」さんのを見つけたので、写してきました。

花見小路を歩いて歌舞練場へ。





お茶席は撮影許可されていました。







 舞台の小之美ちゃんは、踊りも容姿もひときわ際立っておりました。さすがナンバーワンの売れっ子舞妓です。
「都をどり」を観た後、枡梅さんの玄関先を写してきました。

何しろ神戸からのJR新快速電車も、京都駅から乗った地下鉄も、何所もかしこも人だらけで、人に酔いそうでした。

京都の街も何時も以上に外人観光客が多かったです。一番美しい時期の京都を観て下さっていたのでしょう」。


さくらさん、いい一日を過ごされましたね。

さくらさんの、前回掲載の「枡梅の一夜」はこちら
阿智胡地亭は2005年に「京おどり」を楽しみました。その画像はこちら

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「あきらめぶし」    添田唖蝉坊

2019年04月11日 | ゲストルーム

添田唖蝉坊(あぜんぼう)  明治5年(1872年)11月25日神奈川県大磯町生まれ 

あきらめぶし      詞:添田唖蝉坊

◆地主金持ちはわがまま者で 役人なんぞは威張るもの , こんな浮世へ生まれてきたが 我が身の不運とあきらめる 。

◆お前この世へ何しに来たか 税や利息を払うため , こんな浮世へ生まれてきたが 我が身の不運とあきらめる 。

◆米は南京おかずはヒジキ 牛や馬でもあるまいし , 朝から晩までこき使われて 死ぬよりましだとあきらめる。

◆汗を搾られ油を取られ 血を吸い取られてその上に , 放り出されて踏んづけられて これも不運とあきらめる。

◆苦しかろうが 又辛かろうが 義務は尽くさにゃならぬもの , 権利なんぞを欲しがることは 出来ぬものだとあきらめる。

◆たとえ姑が鬼でも蛇でも 嫁は素直にせにゃならぬ , どうせ懲役するよなものと 何も言わずにあきらめる 。

◆借りたお金は催促されて 貸したお金は取れぬもの , どうせ浮世はこうしたものと わたしゃいつでもあきらめる 。

◆オラが一票でうかった議員 今じゃ汚職の代弁者 , オラどうしよう困ったなぁ これも不運とあきらめる 。

◆長いものには巻かれてしまえ 泣く子と資本家にゃ勝たれない , 貧乏は不運で 病気は不幸 時世時節とあきらめる 。

◆あきらめなされよ あきらめなされ あきらめなさるが無事であろう , わたしゃ自由の動物だから あきらめきれぬとあきらめる。

(ネットからの転載)

添田唖蝉坊(明治五年=1872~1944)

神奈川県大磯町に(1872年=明治五年)生まれ。添田利平、つなの次男・本名=添田平吉。添田家は中農の家柄であった。
1944年(昭和19年)唖蝉坊は、東京馬込の長男・知道宅で死去。享年72歳。
親子二代も演歌師、明治、大正時代の演歌師
唖蝉坊は明治23年、横須賀で見た壮士の街頭演歌に感動し、演歌壮士の団体から 印刷物を取り寄せ、ひとりで演歌を始めた。

【引用図書】

「添田唖蝉坊・知道」演歌二代目風狂伝・木村聖哉著
歌を通して特権階級(義員、地主財閥など)を俎上に載せ、鋭い風刺の矢をはなった。(同上268頁)。

政府批判の壮士(歌うジャーナリスト)でもある。

唖蝉坊、知道の親子はいわゆる思想家・知識人ではなかった。学歴もない。それ故書物主義に陥らず舶来の思想や新知識に振り回されることもなく己を持すことができた。
(同上268頁)

唖蝉坊と子の知道はたしかに演歌者であったが、ただの演歌者ではない。本質は警世家、啓蒙家だつたと思う(同上269頁)

高踏に陥らず、卑猥に流れず、歌に志操があるというか、風俗性制と音楽性と思想性が統一されている。
勃興する資本主義。金がすべてを支配する世の中。それに対して唖蝉坊は満身の怨嗟の声を発した。
その精華は「あぁ金の世」に余すところなく示されている。(同上・57頁)

【その他参考図書】「演歌の明治大正史」添田知道著・発行=刀木書房・昭和57年

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