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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

ハンナ・アーレント著 「エルサレムのアイヒマン」   彼は特別な悪者ではない。  イデオロギーに盲従し事実を蔑ろにする人が・・

2021年04月04日 | SNS・既存メディアからの引用記事

映画「ハンナ・アーレント」を観ました。  2014年1月11日掲載

地味な映画なのでこの映画の観客は5,6人ではと思って行ったら、驚いた。私の行った上映回は男女合わせて40人ほどの人がいた。
しかも自分とほぼ同じ年代の男女が過半数以上いて嬉しかった。
ドイツの女性が監督をしたややドキュメンタリーのような結末のない映画だ。自分もナチの収容所に留置され、そこを脱出してアメリカに逃げたドイツの哲学者
ハンナ・アーレント。ナチの収容所長だったアイヒマンをイスラエルのモサド(秘密警察)が南米で逮捕し、その裁判がイスラエルで進められた。
それを傍聴した彼女の傍聴記がアメリカの新聞に掲載された。読んだユダヤ系を主とした人たちから、彼女はアイヒマンの擁護者だと激しく非難攻撃された。
 彼女の自分の信念に基づく反論の戦いと友人を失っていく哀しみの描写。ひさしぶりに一人の人間の真の強さと孤独を描く物語に接した。
映画を見て思った。人は誰もがアイヒマンのような有能なヒトラーの配下になりうる。アイヒマンは極悪非道な稀有な悪人でもなんでもない。
考えることを止めた人間といういうだけのことだ。自分一人があらがっても世の中は変わらないと思ったら、そこで人はそれ以上善悪を考えることをやめてしまう。
命じられたことや組織の決まり事をたんたんとやればいいのだ。結果がどうなろうが、それは私の責任ではない。そういうふうにするのが与えられた私の仕事なんだから。
 それがドイツ人にヒトラーの社会を作らせ、ユダヤ人の大虐殺に手を染めることにつながった。
彼女は言う、「私はこの現象をもって悪の凡庸と呼ぶのです」(“It is this phenomenon that I have called the banality of evil” )

いま制作者がこの映画を作ろうとしたタイミングを考えると、日本だけではなく世界でも同じような思考停止の傾向が、再び出ているということだろうか?それにしてもこのような映画を作ろうとする側の強靭な思いと、制作に集まった人たちの努力、主役の女優のアンナが乗り移ったような演技が凄い。
 もしこの役を演じ切ることができる日本の存在感のある女優がいるとしたら、亡くなった杉村春子か高峰秀子か、現役では大竹しのぶくらいしかいないのでは。

余談ながら映画の冒頭から最後まで画面には紫煙が立ち込める。ずっとどの場面にもタバコに火がつき煙が流れる。人はまさにその時代、時代を生きる。
この一例を見ても、現在の知見で、過去を、過去の歴史を軽々に断罪するのは滑稽なことだとあらためて思う。彼女が生きた時代はそういう時代だったのだ。
 時間を作ってでもこの映画を観られることをお勧めします。

   映画紹介:(ネットから)
ドイツに生まれ、ナチス政権による迫害を逃れてアメリカへ亡命したユダヤ人の女性哲学者ハンナ・アーレントを描いた歴史ドラマ。1960年代初頭、ハンナ・アーレントは元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記事を執筆・発表するが、記事は大論争を巻き起こし、アーレントも激しいバッシングを受けてしまう。その顛末を通して絶対悪とは何か、考える力とは何かを問うとともに、アーレントの強い信念を描きだしていく。2012年・第25回東京国際映画祭コンペティション部門出品。

スタッフ

監督マルガレーテ・フォン・トロッタ 
製作ベティーナ・ブロケンパー   ヨハネス・レキシン
脚本マルガレーテ・フォン・トロッタ  パメラ・カッツ
キャスト
バルバラ・スコバ     ハンナ・アーレント
アクセル・ミルベルク   ハインリヒ・ブリュッヒャー
ジャネット・マクティア  メアリー・マッカーシー
ユリア・イェンチ     ロッテ・ケーラー
ウルリッヒ・ノエテン   ハンス・ヨナス

作品データ
原題 Hannah Arendt
製作年 2012年
製作国 ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作
配給 セテラ・インターナショナル

<-- ハンナ・アーレント予告編 -->

映画「ハンナ・アーレント」レビュー、思考し続ける大切さと意志の強さ
By Hotaka Sugimoto
  ハンナ・アーレントの提唱した「悪の凡庸さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変な重要なものです。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合う怪物が成したのではない、思考停止し己の義務を淡々とこなすだけの小役人的行動の帰結として起こったとするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。凡庸な人間がそうした悪に鳴り得るということは、人間は誰でも思考を放棄すればアイヒマンのようなことをしでかすかもしれない。その可能性を考えるのは怖い。なので人はその可能性に眼をつぶり思考停止してしまいたくなる。しかし「悪の凡庸さ」が突きつけるのは、人間と間と分け隔てるのは思考することであるとします。

映画「ハンナ・アーレント」は、アーレントがアイヒマン裁判を傍聴し、「エルサレムのアイヒマン」を発表し、ユダヤ人の友人やコミュニティから非難されても、思考を止めずに主張を続ける彼女の姿を通じて、思考することの重要さを訴えます。アーレントを知らない人、エルサレムのアイヒマンを読んでない人にとって非常にわかりやすい内容で、なぜ悪の凡庸さが今日にいたるまで重要な論考なのかが実感を持ってわかります。続きはこちら

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