2003年の7月はじめのある日お台場の「船の科学館」へ行った。
そして海中から引き上げられ、調査が完了した後はここで展示されている北朝鮮の工作船の残骸を見てきた。
この日は新橋のユリカモメの駅で学生時代、弓道部で一年先輩だった五十棲さんと待ち合わせた。
五十棲さんからは少し前に、学校の同窓会誌に掲載された「私の阪神淡路大震災体験記clickを読みました」と同窓会編集部気付でお手紙を頂き、そこから交信が復活した。
この日私が神戸から上京した機会に、卒業以来38年ぶりにお会いすることになった。
まことに「知己あり、遠方より便りあり」は生きている間に体験する哀歓苦楽の中の歓という大きな一つだ。
この日の小旅行は、五十棲さんが事前に男二人のデートコースを練りに練って下さり、
外からは何度も見ているが、内部は初めてのフジテレビ見学も、これもまた面白かった。
1)工作船は、添付の写真にあるように錆びた鉄のドンガラだった。上陸用の小型高速艇をも積み込んだスペースから見ると、
生活区域はどこなんだというくらい小さな船だが、スクリューだけは4本も並列に並んでおり、船体の大きさに不釣り合いな推進力があったことがわかる。
巡視船からの銃弾で何ヶ所も沢山の貫通孔も見えた。また最後は自爆したらしいが、自爆用の装置も積んでいた訳で、
真っ黒に焼けた広い個所があった。本体と合わせて引き上げられた銃火器や生活品、衣服などは第2会場に陳列されていた。
ハングルも当然あったが日本のメーカーの製品も多かった。中国政府の横やり(北朝鮮からの依頼もあってのことかもしれない)で、
引揚までに時間が長くかかり、海中に長期間漬っていたとは思えない保存状態だった。
保安庁の船が追跡を始めた時から工作船が自爆して沈没するまで、記録班?がビデオ撮影しており、
それを公開用に編集したビデオも連続放映されている。
これを見ると、砲撃開始までには停戦命令を日本語、英語、中国語、韓国・朝鮮語と4つの言語でくり返し繰り返し行い、
砲撃開始も「停戦命令に従わなければ国際法に則り砲撃する」と大音声のスピーカーで何度も警告している。
先方からの反撃の砲撃は当然ながら突然であり、ビデオの担当官も驚いている様子がカメラの揺れでわかる。
船の実物とビデオを見ると、
これに乗っていた連中は明らかに戦闘を常に予測している兵士だ。本国からの自爆指示か責任者が叩き込まれている
マニュアルによる自爆かはわからないが(また、自爆かどうかも本当のところはわからないが)、少なくとも十数名の
20代、30代の人間が死ぬ時に将軍様マンセーと言ったか、オモニー(お母さん)と言ったかは知らないが、停船せず、
また逮捕されることなく死んだ。
2)これらを見ていると、かの国は昭和20年から58年間、今も戦時体制にある国なんだと実感する。
見た船体も装備品もよくここまで使っているなあという古い品物が多かった。
この間、戦費や宮廷費用を調達するために、これらの船で大麻から麻薬からなんでも金になるものを日本に持ち込んだり、
潜入者の教育係のため、色々な階層の日本人を拉致してきた。
ある一族とその取り巻きの安寧と永遠の持続のためにだけ、その国の大多数の人間は存在するというのは歴史上どこにもあることだ。
(つい140年ほど前まで日本も、徳川さまご一家ご一統の安泰のため情報封鎖の鎖国をした。
そして厳しい禁令を沢山つくり、他国世間様とのお付き合いをさせないように取り締まった。
この間、向こうの島国人のイギリスがアメリカ、カナダ、豪州など好き放題に切り取り強盗をやる間、
本来彼ら以上にパワー溢れるこちらの島国人は300年間、大きな外航船は作れないし、
お家取り潰しにあわぬようなどお上の顔色を見てビクビク過すしかなかった。なんともったいない300年。
あのころお上が手をださない読み書きソロバンなど普通日本人が寺小屋などで受けた教育は、当時の世界レベルで質量共に
他国を圧していたことを思うと、お上が手を出したら碌な事にはならない例の一つだ)
にしても、北朝鮮にとって気の毒なのは、地球上の時代がこの50年で、もう偉大なる将軍様でも統領様でもないように、
不十分ながらも封建主義から民主主義にシステムが変わってしまったことだ。中国も、ロシア(ソ連)も
北朝鮮を緩衝材に使うだけ使って、今や使い捨てというのも気の毒だ。
3)かの国に自分が今生まれていたらと想像すると、気の毒に思うことは多々あるが、「暴力とカネ」だけがルールで、
ある一族だけのために50数年運営されてきた国の人とはもはや同じ常識は通用しない。
かの国が国として、金一族と共に自滅するしかないとすると、人間とはつらいもんだと思いながら会場を後にした。
(とは言え、昭和20年、アメリカが準備していた原爆をあと5発ほど落していたら、こちらも歴史家におんなじ事を書かれていた可能性もあるが)
五十棲さん、自分では行こうと思い付かないところへ連れて行って頂きありがとうございました。
2003.9.04 作成