あらっ、この人あの魚屋の小父さんじゃないかしらと夕刊を見ていておもわず大声を出した。
えっどうしたのとテレビを見ていた二人の娘が、相方の両脇から頭を突っ込んで一緒に記事を読んだ。
「九十九里浜の海水浴場で水泳監視人が死亡」と出ていた。
<これより遊泳禁止>の旗を無視して遠くへ泳ぎ出した高校生二人が、共に溺れかけ地元のボランティアの監視人が泳ぎだして二人を助けたが、
二人目を岸に連れ戻したあと心不全で亡くなったという記事だった。
昭和55年の秋、南柏の会社のアパートを出て取手市の隣りの藤代町に家を買って引越した。
JR取手駅からバスで10数分の戸建住宅ばかり700戸ほどの住宅地だった。
*(2003年の選抜に茨城県代表で出た県立藤代高校へは光風台というその宅地の入り口から10分ほどのところにある)
引越挨拶で近所をまわったとき、数軒の奥さんがその場で色々教えてくれた中に土曜日に魚屋さんが小型トラックで来て、新鮮な魚を買えるわよ、
そのトラックは前からお宅の家が建ったところの前に停まるからって教えてくださった。
家は住宅地の入り口にあるバス停まで歩けば10数分かかるという奥まった場所で、日常の買物はまわって来るスーパーの小型バスに乗るか
自転車で行くしかなかったが、自転車ではスーパーまで結構距離があり難儀だった。
土曜日になると「魚屋だよ、魚屋だよ」と大きな声がして家の前にトラックが止まり近所の奥さん方が集まった。
取手駅のイトーヨーカドーまで行けばサカナは買えたが、この小父さんの毎週の行商のおかげで新鮮なイワシやサンマ、カツオなどが
手に入りうちもご近所も皆助かっていた。この小父さんに7年ほどお世話になった。
相方が小父さんといろいろ雑談する中で、小父さんは50歳代中頃で九十九里浜で漁師をしながら民宿を始め
民宿シーズン以外はこうして行商をするようになったと言うことがわかった。
夕方のNHKのローカルニュースでも放送され小父さんの顔写真が映された時、相方と子供達は声がなかった。
特に3歳で引越して、小父さんが来ると毎回、相方について出ていた次女は、彼とは7年間近く毎週会っていた。
次女は生まれて初めて身近に知っている人が死ぬという経験をして、今でもあの時の事は忘れられない、
特に人の命を助けて自分が死ぬ事をする人がいるんだと忘れられないと言った。
毎月の家のローンと夫の呑み代・麻雀などの遊び代で手いっぱいで子供のおやつ代にまわる金はなく、
おやつは母親手作りのジャムやオカラと人参のケーキ、きなこ飴などしかなかった子供には小父さんが無造作に
ビニールを破ってハイといつも手渡してくれるヤクルトは本当においしくて毎週土曜日が楽しみだったと言う。
それからもう魚屋さんは来なくなり、その事に慣れ出して2ヶ月くらいしたら「魚屋だよ、魚屋だよ」と女の人の声が聞こえた。
外に出てみたら、あの見慣れた車の側に初めてみる女の人とその息子らしい若い人がいた。
予想どおり、あの小父さんの奥さんと長男で「これから引続きまわってきますので、ウチのお父さん同様よろしくお願いします」と挨拶された。
あの日の事を聞いてお悔やみを言った。
その秋に神戸に引越したので、そのあとどうされたか分からないけど、7年も毎週顔を合わせていたあんなに気風のいい人が、
ああいう亡くなり方をするなんてと、いまでも忘れられない。海から遠く離れた土地で牛久沼の鰻やフナや鯉なんかはいつでも手に入る所だったけど、
あの小父さんのお陰で海の新鮮な魚も食べる事が出来てあの7年間は本当に魚には不自由しなくて済んで、ありがたい人だったと相方は言った。
いつものように飲んで麻雀をして終電で深夜1時過ぎに帰ったら相方が、今日大変なことがあったのと小父さんが亡くなった話をした日のことは私も覚えている。
2003.8.04記