50数年前に学校で知り合った人だが、定年になったころから交信や会う頻度が多くなった古い友人がいる。大阪の富田林市に住む山内さんだ。
彼は学生時代から1年365日毎朝の座禅を欠かしたことはなくまた、保護司を含めて多くの社会活動をずっと続けてきた人だ。
⇒ メール有り難うございます。
今年で6回目となりますが、15日朝から出掛けて、昨日10日間の京丹波の瞑想合宿から帰りましたので拝読遅れました。
今年で6回目の瞑想合宿でも、男女半々で計70名程、約2割が外国人、年齢は大体30代から40代の若い人。
多くの人が、生きることの意味・楽しさ、つまり安心を求めていたのでは無いかと想像します。
私は、今回は、瞑想する側ではなく、食事を中心とした瞑想者の世話役に回りました。
違った立場に自分を置くことで、私には大きな学びとなりました。それは、おこがましい言い方ですが、
私なりに釈迦の教えが、大変クリアーになったと言うことです。
キリストの教えが、神の存在、神の愛や神による許しであるのに対して、釈迦の教えの一丁目一番地は、
皆様ご存知の通り無常無我だと思います。
実はこの四文字に我々の生の真実が説かれ、楽しさ・安心が何であるかを説かれたのだと、
今回明快に分かった様な気がします。
余計な事と思われるかも知れませんが、少しその思いをシェアーさせて下さい!
無常:これは「サピエンス全史」の著者ハラリが、この書に明確に書いていますように、
神も宗教も貨幣も市場も国も全てイルージョン、
つまり頭(抽象化・概念化能力)が産みだした幻想だと言うことであるかとも思います。
そして彼は、この言葉の前に、
ホモ・サピエンスが、頭の大きさも体の頑丈さもより優れていたネアンデルタールに勝ったのは、抽象化・概念化の力のお陰と言い切っています。
今の天皇の祖先が、日本を統一維持するために、天照大神の話を創った様に、国や民族をまとめるには、国の民族の物語が
要る訳です。サピエンスは、その能力に長け、1対1では負けるネアンデルタールに数の力で勝てたと言うわけです。
ホモ・サピエンスは、誕生以来その能力を磨きに磨き、石油文明を築き、ついにはAI時代・生命にすらもメスを入れ出す時代に至りました。
(ハラリは、次の書ホモ・デウスでこの辺の所を書いています)
釈迦は、過去も未来も全て頭の産物に過ぎない、 自分の実在は今の一瞬のみで、人生は、過去・現在・未来と直線的にあるのではなく、
この今のこの一瞬のRealityの連続として今・今・今としてのみにあると2600年前に気付かれ、無常と言い残されました。
そして、イルージョン・幻想は、人類の 社会生活には不可欠なものとしても、それはあくまで生きる方便としての
イルージョン・幻想なのだから、そこには人生の真実も、真の楽しさ・安心は、そこには無いよと諭されたのだと思います。
ハラリは、神や貨幣などはイルージョン・幻想と言いながらも、ならば実像は何かを、サピエンス全史でもホモ・デウスでも殆ど語れていません。
これは、彼が、人間の知性を最重要視する西洋人であることの限界かとも感じています。
他方 釈迦は、ならば何が実像か明確に言い残されました。それが無我だと思います。
独断と偏見で超訳的に言えば、無我とは、“支えられてしか生きれない“と言うことだと、今回瞑想者のお世話をしていて“確信”しました。
私は、何回かの遍路の後、ベッドの上で目が覚めた時に、耳に入る鳥の声、目に入る日の光、自然に起きる伸びそして起こる気持ち良さ・・
“これってオレの力か?オレと言うよりもオレの生命の力やろ!”と閃いた事がありました。
しかし、生命の支えの重要さの気付きは、まだまだ浅かったようです。
私が瞑想者側だった時も、勿論三度の食事が出されましたが、有り難いなぁとは感じながらも、自分の瞑想が、
その支え無しには成り立たないと言う迄には、思いは至りませんでした。
この気付きは、“私が坐禅で出来ることは姿勢を保つだけ、瞑想で出来ることは呼吸に気付くことだけ、
悟りと言われるモノも心の平静さも全て生命の働き!生命が産み出すもので、私の手出しの出来ない範疇”と言う気付きに
自ずと私を導いてくれたように感じています。
眠れるのも、起きれるのも、食べたモノが栄養になるのも、運動したら健康になるのも、その逆も、つまり生きる事の全ては、
自分のと言うよりは生命の力そのものだと痛感しました。そして自分の生命は、空間的には、妻、子供・孫、友達、世間、天地の恵みに、
時間的には、ビッグバン以来の宇宙の営みと生命を自分にまで繋いでくれた父母・祖父日・名も知らぬ先祖の存在・支え無しには
存在し得ないことに改めて強く思いを致しました。
こう書くと、何か道徳の教科書のように響いてきますが、勿論、人間が社会生活と言うか、多くは支配者側の都合で創り出された期待される人間像とは、
似ていて全く非なるものです。それは縄文時代以来の日本人の自然崇拝とその崇拝をtake advantageして創られた天皇支配の物語に過ぎない
国家神道の違いに似ているとも言えます。
釈迦の説く無我、どこが道徳や倫理と違うのでしょうか。少し感じている所を書いて、ダラダラしたメールを終わらせて頂きます:
・道徳や倫理が、人間や支配者の都合で創られたものであるのに対して、無常もそうですが、無我つまり
先述しました支え無しには、自分は存在し得ないと言うことは、自分が信じても・信じなくても、気付いていても・いなくても、
金持ちでも・貧乏人でも、地位の如何にも、人種・民族・性などの違いに関わらず全ての生命に働いている生きていることの真実である
・人間は、二つの不条理を生きねばなりません。最大のモノは、「生老病死」です。我々は、社会としても個人としても、
この不条理を解決する事が、人類の進歩と信じて疑いません。
ノーベル賞もこの観点で選ばれています。自分の人生の選択もこの方向で行われています。無常もそうですが、
無我とは、道徳や倫理は、そう言う社会の都合、クドいですが支配する側にとって都合の良い、自分に都合の良い生き方造りの為の
物語に過ぎないと言い切っていると思います。
更に、 不条理とは、それは自分の都合で見るから不条理であって、事実としては、「生老病死」は、生命の働きであり、
人間の思いの手出しの出来ない範疇なのだ 不条理と言い切っています。
癌などの不治の病を宣告された人、障害者を子供に持った母親、性的マイノリティに生まれた男女、ナチの強制収容所に入れられたユダヤ人など、
不条理に出逢った故に生きる意味と究極の安心を得たと言う話を良く見聞きしますが、それらの人は、 不条理とは、
自分の生きることが生命の支え無しには成り立たないように、自分には不条理と思えるのは、自分の都合に合わないと言うだけで、
あくまでも人の手出しの出来ない生命の力なのだと言う真理に気付いた人ではないかと私は、思います。
逆に言えば、いわゆる健常者で普通と思っている我々は、健常・普通故にむしろこの真実に気付く機会が無く、それだけ、 「生老病死」 か不条理に思え、
その思いが不安を産み出しているのでは無いでしょうか。(もう一つの避けがたい不条理は、「何かの生命を殺さない限り、生命は生きれない」事だと思います。
これはもう、ベジタリアンになってせめて動物を殺さないようにするか、ゴメンねと謝りながら感謝の心で、生命を頂く以外には無いように思います。
この事も、不条理としてではなく、生命の働きとして受け取るべきものと感じています)
・つまりは 世の中の道徳・倫理、幸福論・生き方は、人間の頭から産み出された社会人としての在り方を説いたものであるのに対して
釈迦の無常・無我は、むしろその頭の働きを産み出している生命の正体から生まれたナマの自分の正体、自分の都合に入りきれない
人間の正体を説いた言葉だと思います。
その違いは、一見言葉のアヤに聞こえるかも知れませんが、天と地ほど違うと言うか 私の言葉で言わせて頂くと
目に見えたままに日が昇ると信じて疑わない天動説とそうは目には見えても実は地球が動いていると知っている地動説ほど180度対極にあるものと思います。
繰り返しですが、無我と言うのは、肝心な事は、全部生命の役割!人間が手出し出来ると思うな!
無常とは、生命の実像は、今この一瞬のかつ他とは分かち合えないrealityであり、眼にはなんと映ろうと頭にはなんと思えようと、
自分は、今この一瞬のrealityとしてのみ実在しており、過去や未来などの思いの中には自分は存在していないことを知りなさいという釈迦の暖かい
しかしこれしか無いと言う厳しい教えではないか!と感じています。
続いて山内さんから頂いたメールから
小説家・庄野潤三に関するブログ読ませて頂きました!
感想二つ
①阿智胡地亭さんは、オレとは違うなぁ!
②なる程この作家が、この作家になれたのは、不条理のセイなんだなぁ!
不条理 根源的な響きを感じますネ!
一番に 近年特に日本各地を襲う不条理とも言うべき大雨・大風・洪水と言う大自然のもたらす災害
多分これがあればこその縄文人の信仰心の始まりではと思います。
そして癌や不治の病の宣告を受けた人・障害を持った子を授かった特に母親・強制収容所に入れられた人・
自殺した家族を持つ人・・・・
しかし考えると死で終わる人生そのものが、根源的には解決不能な問題を包み込んだ不条理の塊とも言えます!
でも幸いにも、人間には、不条理に向き合えば必ずその生が深まると言う力が備わっているように思います!
その第一発見者が、人生は苦と言い切った釈迦ではないかと思います!
彼は不条理は、人間としての都合を持ち出すからこその不条理であり、全ては、実は自然の摂理だと
見切って、そしてその事を無常・無我と説きました。
そして この事を分かった人は、不条理により真の人生に出逢えると
80歳で亡くなるまでインド中を説き回りました。
無常・無我は、一般に理解されているように、単なる儚さを説いた言葉では決してありません。
自然そして自然の産物である人間そして人間の生きる人生の現実・真実を描写した言葉です。
無常とは、確かに過去が今を創り、今が未来を創っていきます。しかし実在しているのは、
今この一瞬のrealityのみなのです!時間は、今過去-現在-未来と直線的に進んでいるのでなく、
この一瞬・この一瞬としてのみ実在している!
残念ながら 過去や未来は、ハラリ氏が指摘し、ホモ・サピエンスがネアンデルタールに勝てた概念化・抽象化が
描き出した単なるイルージョンだと言うい意味のです。
無我とは、無常である限り、カチッとした我は有り得ないと言う無常の言い換えーつまり
時間的な側面を持つ無常の空間的言い換えであり
超訳的に言えば 時間的にはビッグバン・地球と生命の誕生・父母や先祖の存在など、
空間的に私の場合は妻(一般的には伴侶)・家族・友・地域や社会・天地などの支え
無くしては人は存在し得ないと説いたごく当たり前の言葉なのです。
無我とは、全ては 不条理なのではなく、恵みだと説いた言葉なのです!
喜寿とプラス半年を迎えると、死の足音が少しですが、聞こえ出す気がしています。
でもその不条理の足音が、また生の輝きを増してくれているようにも感じています!
負け惜しみでは無く、年を取るのは良いものですョネ!
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